豫章太守であったが、孫策が侵攻してくると降り、孫策の死後は曹操の招聘を受けて魏に仕える。
この時、孫権は曹操の元に行こうとする華歆 を引き留めようとしているが、
華歆 は「許都にいても孫権様のためにできる事はありますよ」と言って、
当時、許都から孫策、孫権の支援をしていた張紘と同じような役割を果たせると主張し曹操の元に行った。
しかし、張紘と違い華歆 はその後、孫権のために何かをする事もなければ帰って来る事もなかった。
演義において、頭痛に悩む曹操に華佗を紹介したのもこの人。
正史と演義で真逆の評価をされていることで知られており、正史では清廉潔白な人物として知られるが、
演義では献帝に禅譲を迫る際に脅しにかかるなどあくどい人物として書かれている。
また、『世説新語』では王朗と共に孫策の元を逃れ、曹操の下へ赴く際の逸話が書かれている。
『反三国志演義』においては、張魯討伐に参戦しなかった馬騰を讒言し、馬騰が捕われて処刑される原因となったため、
馬超・馬岱に恨まれる事となる。
その為後に捕われた際、馬超・馬岱に生きたまま肉を削がれ、その肉を炙られ食べられるという処刑をされる事となる。