蜀〜西晋の武将。
益州刺史・皇甫晏に王佐の才と評価され主簿に取り立てられたことに恩義を感じており、皇甫晏が張弘に殺害された上に
大逆罪で訴えられると、母の喪中にもかかわらず梁州まで赴き皇甫晏の無罪を訴えている。
後任の益州刺史となった王濬が、孫呉討伐のための軍船建造を命じられると、休養中の正規兵を呼び戻して人員を確保したり、
資材として墳墓に植えられた木を材木として買い付けるなどして協力。
王濬が龍驤将軍に任じられると彼の参軍となり、裴秀の娘を娶っている。
晋が三国を統一した後は、楊駿の専横に対し石崇とともに弾劾奏上するが却下される。
しかし後日、恵帝が楊駿を討伐すると、帝のもとに馳せ参じて楊駿討伐に協力する。
その後は八王の乱で乱れる世を厭い隠棲していたが、司馬倫が帝位簒奪した際に脅されるとやむなく出仕し、洛陽で死去した。