劉禅に仕え寵愛された宦官。
費禕・董允の存命中は特に出世することがなかったが、董允が没すると後を継いだ陳祗は彼を取り立てて重用。
そして費禕と陳祗も死去すると、劉禅に信頼される彼を抑えられる者はいなくなり、蜀の実権を握っていくことになる。
特に人事面での干渉は大きく、羅憲などの優秀な臣下が左遷されている。
その専横ぶりは、劉禅の実弟に当たる劉永ですら、黄皓と仲が悪かったという理由で讒言され劉禅に会う事を許されなくなったというほど。
特に演義において、北伐を続ける姜維の足を引っ張りまくったことがよく知られているが、
史実でも姜維のことは気に食わなかったようで、姜維を追放し閻宇を大将軍に立てようとしたことがあった。
しかしこれは降将に過ぎない姜維が大きな権限を持つことや、諸葛亮存命中でも成しえなかった北伐そのものへの懸念などもあり、
一概に彼の身勝手による横暴とは言えず、実際に諸葛瞻や董厥も賛同していたとされる。
私情で国政を動かし、前線の現場よりも巫女の占いを信じて姜維からの援軍要請を握り潰し、
三国志の著者・陳寿からは「国を転覆させた」と最悪の評価を下されている人物。
同時期の呉の政治家である薛珝や張悌も、
蜀の国政については「宦官が牛耳っており正論が言えない」と酷評していたという。
演義では陳祗の存在が完全にスルーされているため、諸葛亮存命中から劉禅の側近のひとりとして登場。
その存在は「蜀滅亡の元凶」としてさらに悪く描かれており、
魏に調略され賄賂をもらって姜維を前線から呼び戻すという悪党ぶりを発揮。
成都が陥落すると鄧艾に処刑されそうになるが、部下に賄賂を掴ませてその場は凌ぐ。
しかし最終的には、彼を害悪とみなした司馬昭によって八つ裂きの極刑に処されている。