曹魏において文武両面で活躍した重臣。
王淩とは同郷であったが、実弟や従弟ではなく弟分として仕えたとあるので王淩とは別の一族と思われる。
曹丕がまだ太子であった頃から仕えており、魏王朝が成立すると洛陽の開墾で功績を上げ兗州刺史に昇進。
曹叡の代では司馬懿の推挙を受けると、都督として対呉戦線の司令にまで出世した。
また、この頃には法制度の緩和を唱えた『治論』や孫子の兵法に基づいた『兵書』などを著している。
呉が二宮の変で弱体化したのを見抜くと征伐を主張。これが容れられると州泰、王基らとともに三方面から攻め込み、自身は朱績を打ち破る活躍を見せる。
さらに江陵に籠もる呉軍を包囲するが落としきれず、陸凱の援軍が来たことで撤退。窮地に陥るも諸葛融の怠慢により難を逃れている。
その後は毌丘倹、諸葛誕の反乱でも戦い、最終的には司空にまで上り詰めている。
人格面では基本的に謙虚を旨とし、竹林の七賢・阮籍を称賛する一方で友人ではあったが性格面に問題のある郭奕のことを痛烈に批判する一面もあった。