父は魏の高官であり、曹操が死んだ220年生まれ。
魏の官僚として仕え始めた頃は大将軍・曹爽とその取り巻きたちが中央を牛耳っていたが、
曹爽らにおもねることなく適度な距離を保ち、また法に明るかったことから順調に出世した。
鄧艾と鍾会が蜀に攻め込んだ際は、彼らの軍監(チェック役)として従軍した。
蜀攻略後に鄧艾の独断専行が目立ち始めると、鍾会と計って朝廷の許可を取り、鄧艾配下の将兵を説得して彼を逮捕した。
鍾会が反乱を起こすと味方に付くよう説得されるが、厠に行くと偽って成都城外の魏軍に事態を伝え、合流して鍾会を討った。
鍾会の討伐後は、放免された鄧艾に復讐されることを恐れ、かつて鄧艾に処刑されそうになった人物をけしかけて鄧艾を殺害した。
つまり二将の死はだいたい衛瓘のせい。
晋王朝の成立後は司馬炎に気に入られてさらに出世を重ね、辺境の統治や異民族対策から中央の政治までこなしている。
陳羣が定めた九品官人法について、これは戦時体制の法であり、放っておくと官僚の貴族化が進む問題点を指摘した。
しかし晋の重臣として政権に深く関わるようになったことで、魏時代に見せていた立ち回りの巧さは鳴りを潜めてしまう。
司馬炎の皇太子・司馬衷は暗愚であったため、衛瓘は宴の席で泥酔を装って司馬炎に廃嫡を進言。
このことで司馬衷の妃・賈南風に目をつけられてしまい、以後は八王の乱へと続く泥沼の政争に巻き込まれることとなる。
外戚・楊駿が権力を握ると、楊駿と仲の悪かった衛瓘は難を逃れるため中央を離れ、司馬炎の庇護の元どうにか命と地位を保つ。
しかし司馬炎が没し司馬衷が即位すると、政争はさらに激化。楊駿が誅殺されたことで中央に復帰した衛瓘は、
残虐・横暴であったとされる司馬瑋の権限を奪うために司馬亮と結託し、八王の乱に火をつける一因を担ってしまう。
前述のように以前から衛瓘を恨んでいた賈南風は、司馬瑋の配下からの讒言を受け、衛瓘に「皇帝廃立を企んでいる」との濡れ衣を着せて司馬亮もろとも謀殺してしまった。
続いて賈南風は司馬瑋にも「独断で司馬亮と衛瓘を殺害した」との濡れ衣を着せて誅殺。
こうして晋は亡国の悪女・賈南風に牛耳られていくことになる。
蜀制圧後に鄧艾を死に追いやったことで、鄧艾を深く尊敬していた杜預からは
「名士でありながら良い評判も聞かないし正義もない。あいつは君子の皮をかぶった小人だ」
と痛烈に批判されたと言い、『晋書』では後に衛瓘が政争の果てに殺害されたことについて「杜預の指摘通りだ」と冷たく記している。
(一応、衛瓘は杜預のこの発言を伝え聞くと、大急ぎで杜預の元に駆けつけて謝罪したという)
死後、衛瓘の娘が中央に嘆願したことにより名誉回復がなされている。