人物紹介 / リョウ統


淩統

長らく、『凌統』と書かれていたが、正確には『淩統(姓の偏がさんずい)』である。
夏口攻めで父・淩操が戦死すると15歳の若さでその軍勢を継ぎ、以後父にも劣らぬ武勇の士として活躍する。

夏口攻めの際に黄祖軍にいた(演義では直接淩操を討ち取っている)甘寧との不仲は有名だが、
史実においても父を心から敬愛する正義漢であったらしく、若い頃に上官が不義を働くとこれを真っ向から諫言。
逆ギレした上官が彼と淩操をしつこく侮辱すると、とうとう上官に剣で斬りつけて死に至らしめてしまった。
続く戦で淩統は味方殺しの罪を死して償おうと決死の奮闘を繰り広げるが、これに勝利し生還。
結局孫権に自首しようとしたが、孫権は武功をもって償えるよう計らい、その奮戦を労ったという。

甘寧との不仲は孫権や呂蒙が気を遣わねばならぬほどであったと言い、
呂蒙の屋敷での宴席の最中、甘寧がいるのを見て剣舞を始め、甘寧が相方になったために一触即発となり、
察知した呂蒙が盾を持って割って入った話は正史にも記されている。
その話を聞いた孫権は、やむなく甘寧を淩統の任地から離れた地域に配置換えし、轡を並べずに済むようにと計らったという。

二人の不仲は吉川英治版でも鮮烈に描かれており、
孫権に謁見する甘寧に「動くな!」と叫んで斬りかかり、孫権自身に止められる場面がある。
先述の呂蒙の屋敷の話も、合肥攻めの前哨戦である皖城攻め勝利の祝賀会に場面を移して描かれている。
(ちなみに吉川版では、この戦いに淩統は遅刻したことになっている)

演義では濡須口で甘寧に窮地を救われ和解するという場面が描かれているが、正史では和解したという記述は特に見当たらない。
また演義でも、この後淩統にはこれといった出番が無かったりする。

フレーバーテキストでは30歳にもならずに早死にしたことになっているが、正史の自身の伝では49歳で亡くなった事になっている。
が、この伝に従うと大きな矛盾が生じる。この地点で既に死んでいる将軍が、彼の兵を引き継いだことになってしまうのだ。
なにより合肥攻めの後、主だった戦いに一切登場しないことも不自然である。
そのため別の書籍を参考に、「29歳で亡くなった」説も唱えられたのだが、これは意外にも最近の話である。
(正史では一応、その間山越平定に従事していたことになってはいる)

三国志大戦での出番はいろいろでこれまで経験した兵種も騎馬・槍・弓と様々、さらにSR・R・UC・Cの全てを経験している珍しい武将である。

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