魏、蜀に比べると個人武勇で最強の人物に意見が別れる呉において、その候補とされる一人。
黄祖配下時代に淩操を討ち取ったとも言われている他、合肥での奇襲戦の話から察するに相応の実力はあったと思われる。
また武勇一辺倒ではない(そこそこの知力がある)キャラ付けが成されることも多いが、
これは孫権に召し出された時に周瑜や魯粛の「天下二分の計」にも通じる戦略を提言したとされる逸話が由来か。
当初は益州の文官として登用されたが肌に合わず、下野して腕自慢のならず者たちを束ね、
地域を勝手に統治し逆らう者には私刑を下す、今でいうギャングの親分(演義では海賊)をしていたという。
この血の気の多さは孫権の下で名のある武将となっても変わらなかったようで、
自身に仕えていた料理人が失態を犯して呂蒙のもとに逃げ込むと、殺さないことを条件に身柄を返還してもらうのだが、
アッサリと反故にして木に縛り付けた上で射殺するという凶行に及んでいる。
面子を潰されてしまった呂蒙は大激怒、軍勢を率いて甘寧の屋敷へ進軍するという事態にまで発展。
結局「天下の一大事に内輪揉めをしている場合か」と母に諭された呂蒙が和解を持ち掛け、
さすがの甘寧も深く反省し涙を流して承諾したと伝わる。
演義では江湖一帯を荒らしまわる、「錦帆賊(きんぱんぞく)」と呼ばれる河賊として登場する。
その後は孫権軍のメインキャラクターとして主要な戦の大半に参戦。
そのほとんどが曹操軍との戦であるためか、劉備軍の猛者たちと比べても全く劣らぬほどの鮮烈な活躍が描かれている。
特に濡須の守りの要として大いに活躍し、楽進に追い詰められた淩統を救い和解する場面、
部下の兜に目印としてガチョウの羽をつけ僅か100人で夜襲を仕掛ける場面は多くのファンの印象に残る。
最期は病身を押して夷陵に参戦し沙摩柯に射られるのだが、あっさり討ち取られる訳ではなく大樹の幹にもたれかかって息を引き取るという描写がされており、その退場までもが蜀将以外にしては優遇されている。
「三国無双」など各種創作ではトレードマークとして「鈴」がよくクローズアップされるが、
これはならず者の親分をしていた頃に彼らが羽飾りと鈴を持っており、民は鈴の音を聞いただけで甘寧一味だと認識できたと伝わる事から。
また彼の武勇を象徴するシーンとして、敵城壁を単身で登り「甘寧一番乗り」と叫ぶ横山版の一コマを覚えている方も多いだろう。
当時の戦は動揺が広がりやすく、大将の力量で相手の戦意が崩れ、逃げ腰の大軍が寡兵に蹴散らされる例はいくつもあった。
甘寧のような名のある将がいると、鈴の音を聞いて察知する相手は怯えて逃げ腰になり、戦果を挙げやすくなる。
ただの飾りではなく、当時の戦を考えれば、名将にとっては自身に有利を運ぶ小道具にもなりえた。