われわれはいかにして物語性を獲得したか


PSyQ

編集工学研究所 松岡正剛
Director, Editorial Enginering Laboratory.

1992年12月17日受理

Keywords
narrative, multimedia, mothertype, captabase, The OPERA Project.

1. はじめに

 私は本稿で、大規模知識ベース一般の問題には触れるつもりはない。研究者の間で議論されている動向についても触れない。私が構想している大規模知識ベースについてのみ意見を述べたい。  しかし、筆者の考えている大規模知識ベースはそれ自体として孤立したシステムではなく、これから説明するもっと巨大な構想と計画の一部に当たるものであるため、以下ではその構想の背景を簡単に説明しながら、その一環としての大規模知識ベースの特質にも言及するという叙述形式をとることにする。

 筆者らが構想し、いま実行に移そうとしているのは「オペラ・プロジェクト」(The OPERA Project)という計画である。1991年に着想し(発想はさらに7〜8年前にさかのぼる)、翌年からさまざまな準備に入った。本格的は発足は1993年秋になる。この計画には技術開発がかなり重要な役割を持つのだが、それにとどまらないいくつかの重要な計画、例えば人文科学的研究や経済のしくみの開発、あるいは国際的な才能ネットワークの形式なども含まれる。なお、ここで「オペラ」といっているのは、音楽的な狭い意味を表しているのではなく、人間の活動の成果の全てを表している。英語でほぼ“WORK”にあたる意味である。

 このプロジェクトの最大の特徴は、「物語」(narrative)あるいは「物語性」(narrativity)を最大限に重視するという点にある。まず、そのことを説明しなければ、筆者の考える大規模知識ベースについて、誰も何も理解できないのではないかと思われる。なぜなら、筆者はすべての知識は物語的に連携すべきだと考えているからである(図1)。</p>

2. 物語の重要性

 もともと、我々の脳のなかには情報編集機能がひそんでいる。これは単なる言語能力とか認識能力とは別のものである。  我々は日々の情報処理の過程でも、ある際立った編集行為を行っている。例えば、昨日一日のことを思い出すとする。このとき、我々は1時間もかけてこれを思い出すようなことはしない。せいぜい10分、いや5分程度で昨日のことを思い出せるようになっている。これは情報圧縮によるものであるが、そこには朝起きてから寝るまでの「物語的軌道」というべきしくみが使われている。これを、かつてロジャー・シャンクが喚起した単なるスクリプトのおかげだと考えるのは、のちの説明が明らかにするように、残念ながらほとんどあたっていない。物語にはもっと複雑で、しかもずっと有効的な方法が使われているのである。

 昨日のことを思い出すというような特別なときばかりでなく、一般的にも、我々は日常的な多くの場面で出来事の順番があるプロットやスクリプトに当てはめて記憶し、再生し、また、ある場所の光景をシーンの単位や関与したキャラクタの言動の特徴によって組み立てている。すなわち、情報世界を一種の物語が進行する劇場のように見立て、素早いシーン展開やキャラクタの言動の特徴を選別進行させながら、複雑にからまる多くの情報を適確に編集処理していると考えられるのである。これを比喩的にいえば、脳のなかの“物語劇場”をハイパーメディア的に、またマルチメディア的に多重操作できるということにあたっている。

 筆者らは、このような日常的な指向やコミュニケーションのしくみそれ自体の中に、頻繁に「物語性」(narrativity)が使われていると確信している。我々が知っている街での出来事を想起するとき、あるいはビジネスマンが業務記録をまとめたり開発計画を練ったりするとき、我々は物語(narrative)の構造のいくつかの特質を知らず知らずのうちに使っているのである。このことを理解するためには、少し歴史的な視野から我々のコミュニケーション技術を展望するという見方をとる必要がある。

3. 情報保存様式としての物語

 かつて、情報は語り部(narrator)の記憶の内側に未熟なままに貯蔵されていた。そこでは、語り部その人が生きた情報メディアであり、生きたデータベースそのものであった。

 彼らは情報を記憶するための特別の枠組みや方法を知っていた。それは「物語という様式」で情報を保存しておくというしくみである。やがて文字と紙が発明されると(すなわち脳と体の外部に思考内容を転写しておくメディアが生まれると)、語り部のような特殊技能を持たない人々にも情報を伝えられるようにするために、ここに「情報保存様式としての物語」が計画的に、しかも各民族の中でいっせいに発想され、そして自覚的に編集されることになった。なぜなら、メディアに定着する物語は、物語に含まれる情報や知識をいつでも同一の内容として再生できなければならなかったからである。

 もともと物語は、人間の情報文化の歴史とともに始まっている。また、そもそも歴史は、ロラン・バルトがそのように言ったことがあるが、物語の創造とともに始まっていた。すでに“history”(histor, historia)という言葉の起源に「物語る」という意味が含まれていた。しかし、各民族の歴史にとってもっと重要なことは、人間の言語活動を含む情報コミュニケーション技術の規範そのものが、実は物語によってこそ開発され、強く促進されてきたということである。物語は古代からハイパーメディアであったのである。

 例えば、フランス語の実際的な公用化は「薔薇物語」や「狐物語」の、英語の基準化は、「アーサー王物語」や「カンタベリー物語」の、フィレンツェ方言の平均的なイタリア語化は「神曲」の、また日本語の平準化は「平家物語」や「太平記」の、それぞれの編集過程を経て初めて誕生したものだった。日本では「太平記」以前に、我々は統一した日本語を持っていなかったのである。

 このことは、新たな言語システムが物語をつくったのではなく、新たな物語システムが次世代の言語をつくったのだということを教えてくれる。これは、今後のプログラミング言語とコンピュータソフトの関係にも、新鮮な示唆をもたらす事実であろう。ちなみに洋の東西を問わず、世界史上に物語が様式的な一応の完成を見るのは、ほぼ11世紀のことだった。

 このような物語の誕生のいきさつは、人間の歴史全般だけではなく、一人の人間の成長過程にも当てはまる。すでに発達心理学者が明らかにしたように、だいたい3歳児を境に、多くの子供は一日の出来事を時間順に登場人物や場面を描き分けて物語れるようになる。脳のなかに一種の“物語回路”の原型ができたためだった。その後、子供たちはこの子供らしい原型に乗せてさまざまの情報を叙述する。子供たちの叙述が物語的であるかどうかは、特にコーダ(coda ─ 物語的終結辞)の有無によって確認できる。コーダとは、例えば「そして、みんな幸せになったとさ」とか「そして、みんな学校を卒業してしまいました」とかいった、物語の終わりを告げる言い回しのことをいう。

 人間が人間らしくなるのは、一連の出来事の情報をひとつながりの開始と集結の様式のなかで処理するということにある。この様式を使用できないと、一部の精神疾患者がそうであるように、情報はまったくつながりを失っていく。物語は精神のバランスにとっても必要だったのである。

 やがて子供たちは、物語の型を教育や読書によって数を増やしていく。ついでそれらのなかから自分にふさわしい型のみを選定し、それを好んで習慣的に使うようにする。おおむね青年期の日記や会話に見られる情報編集過程では、彼が選定した一つないしは二つの物語の型を使うに過ぎないといわれる。

 このように見てくると、かつて AI コネクショニストの一人、ブラウン大学のレオン・クーパー(Leon Cooper)が「記憶は論理と同じだ」といったことがあるが、これはまったく間違いだったことがわかってくる。記憶の本質は「物語様式の内なる活用」にあるといわなければならない。

4. 物語が物語を生む関係

 もう少し、物語が我々のコミュニケーション技術に与えている重要な特質を説明しておく。

 物語を読むという行為は必ずしもリテラルなテキスト上でのみ展開されるわけではない。絵本、劇画、アニメーション、映画、テレビなどの多くのメディアの中でも、物語を“読む”ことは可能である。また、多くのヨーロッパの古代中世庭園がそうであり、アジアの中性近世庭園がそうであったように、建築術や造園術においても物語の解読は頻繁に適用されてきた。物語は、どんなところにもとはいわないが、かなり多くのメディアに付着させることができたのである。いやもっと正確にいうなら、物語をさまざまなメディアに内属させるためにこそ、各種のメディアが発達してきたといってもよいかもしれない。すなわち、歴史におけるハイパーメディアとしての物語は、かなり早くから、“マルチメディアライク”にも展開されてきたのだった。

 このように物語の適用が広範囲にわたったのは、物語が母型(mother type)を持ち、人々がこの母型を情報伝達の枠組みに使用できたからである。

 例えば、ジョン・ミルトンの「失楽園」はダンテの「神曲」を下敷きにし、「神曲」は古代ローマ時代のヴェルギリウス(Verigilius)の「アエーネイス」の物語の枠組みを下敷きにし、そのヴェルギリウスは多くのギリシア神話の母型を下敷きにした。また、ゲーテの「ファウスト」は数多くの中世ファウスト伝説を下敷きにし、その中世伝説をさかのぼれば、そこには旧約聖書の「ヨブ記」が母型として控えているといった具合なのである。

 こうした「物語が物語を産む構造」すなわち「物語知識間のハイパーリンク構造」は、世界中のおびただしい例をもって証明することができる。しかもよく知られたごく単純な物語であるならば、多くの人々はその物語が何に似ているかを当てることさえできるのである。いわゆるシンデレラ物語には、いまのところ世界中に約800種を超えるバージョンが採集されているのだが、そのどの物語を語って聞かせても、いったんシンデレラの物語を知った人々には、それらのバージョンがそれぞれ同一の母型を持っていることがおおまかに認知できることが知られている。

 さて、物語にはいくつかの著しい特徴、つまり物語を物語として成立させている物語構造の特徴がある。この物語構造の特徴を適確に分析し把握することが、我々を新しい大規模知識ベースの展望に導いていく。

5. 物語の特性とは何か

 筆者および編集工学研究所が進めている準備的な物語研究では、すでにいくつもの物語の本質的な特徴や特性が明らかになっている。が、ここでは最も代表的な物語構造が持つ特徴をあげておくことにする。

 まず第一に、物語は「世界モデル」を持っていると考えられる。世界モデルはシェイクスピアの時代の「世界劇場 テアトルム・ムンディ」(Theatrum Mundi)や江戸時代に確立した歌舞伎の「世界」(Sekai)にあたるもので、物語の舞台の普遍的構造を表す。すなわち、物語の世界を内側から限定しているマクロなルールのことである。このルールは情報自己保存性を持っている。世界モデルによって、物語は物語であることを支えることができるのである。ちなみに AI 研究の現状、および昨今の市場に出回っているコンピュータアーキテクチャやコンピュータソフトは、この世界モデルを用意するという考え方が決定的に欠けている。

 第二に、物語にはアーキタイプあるいはプロトタイプがひそんでいる。悲劇には悲劇の、恋物語には恋物語の、ビジネスマンのサクセスストーリーにはそれなりのプロトタイプがあると考えられている。編集工学研究所の調査では、物語のプロトタイプは50種を越えないだろうという結論を出した。この数十種類のプロトタイプから物語のアーキタイプがさらに数種類抽出できる。そして、このアーキタイプを母体にしたものを、オペラ・プロジェクトでは「ナラティブマザータイプ」(narrative mothertype)あるいは単に「マザー」と呼んでいる。  ついでながら、コミュニケーションサイエンスやコンピュータサイエンスでは、これまでプロトタイプの有効性をあまり重視してこなかった。ひどい場合は、プロトタイプの偏重はステレオタイプ思考に陥る危険があるとして避けられていたきらいさえあった。しかし、プロトタイプは(むろんステレオタイプでさえも)、我々の情報処理にとってまことに有効な方法をもたらしているというべきである。例えば、ここに椅子があるとして、もしデザイナが椅子というプロトタイプを持っていなかったら、どんな椅子もつくれなかったろうし、また、日常会話で「どんな料理が好きか」とか、「どんな異性のタイプが好きか」と問うことで、我々は実に大量の情報処理を済ませてしまっているのである。

 第三は、たいていの物語には四元素が入っている。四元素とは、【1】ストーリーあるいはプロット、【2】場面(シーン)、【3】登場人物(キャラクタ)、そして【4】語り部による ナレーションである(図2)。

 ストーリーあるいはプロットは、アリストテレスが名づけたミュトス(mythos)にあたるもので、物語の軌道(narrative trajectory)をつくる。シーンは物語を強く特徴づける静止した光景のことで、子供のための絵本がそうであるが、一つの物語を圧縮していくと、約10シーンほどに編集することさえ可能である。しかし、物語に入っていくものにとっては、シーン相互間の理解も重要で、この点については今日の多くのハイパーメディアソフトもすでに十分な認識をもっていると思われる。物語を動き回るキャラクタについては、特に説明が必要ないと思うが、ここでは登場人物の際立った特徴、登場人物相互の関係を表すネットワーク、登場人物たちがしゃべるメッセージなどが管理される。

 物語にインタラクティブな現実感と雰囲気を与えるのはナレータである。一つの物語もそれがおばあさんによって語られるのか、隣人によって語られるのか、ニュースキャスタによって語られるのかによって、その印象を大きく変える。また、ナレータ自身にもいくつかの物語を眺める目が潜在する。これらの目は、おおむね編集的全知(editorial omniscience)、中立的全知(neutral omniscience)、多元的全知(multiple selective omniscience)のいずれかに属する視点によって構成される。このような複数の視点は、物語関与者の実際の体験から生まれたものではなく、物語構造をつくりあげてきた多くの内外の視点の統合によって確立する。しかし、さらに検討を重ねてみると、物語情報を平均的に処理できる視点としては、遍在的な語り手(omnipresent narrator)の視点と全知的な語り部(omniscience narrator)の視点の二つを備えていればよいことが判明する。

 第四に、物語には筆者らが「自己編集性」(self editing sysytem)と呼んでいる特徴がある。自己編集性は情報を整合的に物語的に前に進めるしくみのことで、自立的な自己修正能力を持っている。この自己編集性の表面的な約束事を、一般的には物語文法(narrative grammar)と呼んでいる。

 我々の脳には、脳は脳で起こっていることを自己言及できないという「記述不安定性」がある。そのため、我々は脳の中に適当な“編集者”を配置しておき、この“編集者”に内部化された情報の処理過程を委ねるという方法をとっている。“編集者”が必ずしも「自己」を持った作業者でないことは、夢に現れてくる不思議な物語や、精神病理学が対象としたさまざまな症例が明らかにしている。我々は自分では気がつかない情報の物語をも、脳のなかでたえず進行させているのである。

 いまAI研究やシステムソフトウェア業界では、システムの自意識性(self consciousness)と自己管理能力(self management)が求められているが、オペラ・プロジェクトでは、これに加えて物語的な自己編集性を装填することを提案している。


6. 知識アーカイブとしての物語

 さて第五に、これこそが大規模知識ベースの開発にとって大きな拠点となる考え方なのであるが、物語はそれ自体が素晴らしい“知識の博物館”になっているという著しい特徴を持つ。

 物語が知識の宝庫であることは、各地各民族の神話伝説、「聖書」、「神曲」「ファウスト」などの作品や物語を思い出すと分かりやすい。それらは、そのまま百科事典の役割を兼ねていた。その後、百科事典は百科事典として自立して作られるようになってしまったが、実は、物語のなかに知識が構成されているほうが、本当の知識がリゾナントに生きてくるはずだった。このことは、仮に自分自身で何かの知識の系列についてしゃべってみようとすれば、すぐに見当がつくことでもある。そこでは何らかのミュトス(筋)というものが表れる。我々は生きた知識を百科事典のようにはしゃべれないのである。

 では、なぜ知識は物語様式を少し放棄してバラバラになったのか。この責任は学問そのもの発達の仕方にある。我々は知識を細分化するあまり、そのそれぞれの狭い牙城を、学者や知識人の安住できる快適な住居にしてしまったのである。それは、学者たちにとって安住しやすい専門用語の牙城となったが、一般の人々にはまったく迷惑なことだった。

 もっとも、知識の細分化と分裂ばかりが起こったわけではない。二十世紀になってからも、例えばトインビーから司馬遼太郎にいたるまで、テレビドキュメンタリーからゲームソフトにいたるまで、さまざまな知識の統合のための物語的構築は試みられてきたのであり、またそれらがいかに人々を興奮させるか、多くの検証がなされてきたのである。

 しかし、ここにきて、さらに新たな物語と知識の関連が生まれようとしている。それはまず、コンピュータの活用によって、大量の知識を人々の目の前に順序良く提示しようという試みとして始まった。この試みは最初はデータベースとして、ついで知識ベースとして、次第に複雑で、意味のネットワーク研究のほうへと向かっていった。しかし、知識を物語に関連させるという、人類がもっとも重要視してきた方法だけは、これまでまったく電子化が試みられてこなかった。ひょっとして知識を多様な“筋”によって多岐に追いかけられるのではないかと思われ始めたのは、やっとビル・アトキンソンのハイパーカードなどのメディアツールが開発されてからのことである。

 しかし、いまや、もっと大胆な介入がなされるべきなのである。そして、物語と知識のつながりを電子的なシステムとして生かそうとするには、実は、かつての「聖書」や「新曲」のような物語的な知識構造がそもそもハイパーメディア構造を持っていたことに注目すればよかったことに気がつくべきなのである。

 第六に、物語にはさまざまなツールが用意されている。例えば地図、年表、系図などはその代表的なものであるが、その他に物語のヴィジュアリティを喚起するための挿画、図解の類などもある。これらは物語をいっそうハイパーメディアライクにしている道具立てである。

 ところで、かつて、このような物語の構造や特徴に注目した物語学(narratorogy)という研究分野があった。ウラジミール・プロップ(Vladimir Propp)の昔話研究や、ローマン・ヤコブソン(Roman Jakobson)の言語論に端を発し、レヴィ-ストロース(Levi-Strauss)やロラン・バルト(Roland Barthes)らの構造主義に引き継がれた物語剣k集である。これらは、物語が人間の文化活動の根幹にひそむものだということをつきとめ、物語の類型、物語の文法、話者の役割、物語時間の研究などを試みたものであったが、一定の成果を得た以降というもの、物語学は新しい収穫がないままに座礁に乗り上げてしまった。物語の文化的本来性ばかりが重視され、それを別の領域、すなわち数理的な構造や技術的な方法に活用する方法が見つからなかったからである。

 また、これまでの物語の電子技術化についてはロジャー・シャンク(Roger Shank)やロバート・アベルソン(Robert Abelson)の試みから、スタウト・スミス(Stauart Smith)やティム・ブレングル(Tim Brengle)の試みに及ぶ、いくつかの初歩的な先例があった。しかし、それらは人類に共有されている物語構造そのものを前提にしたのではなく、プログラム上にごくわずかな物語的要素を付与するだけの試みだった。また、ブレンダ・ロ■ンル(Brenda Laurel)やアビー・ドン(Abbe Don)らによっても情報を物語的に処理することの重要性が指摘されているが、彼女らの発想にも物語の本格的な応用は見られない。

 しかし、筆者らは物語あるいは物語性の持つしくみが、人間の脳が持つ記述不安定性を補う情報編集過程の重要な鍵を握っているばかりでなく、新たなマルティメディアライクでハイパーメディアライクな情報文化技術の統合のためにもなり得ることを発見した。物語は、その歴史の最初から、もともとワークフロー言語とシームレスユーザーインターフェイスを持っていたシステムなのである。そして、物語にひそむ技術こそが「文化の技術」と「意味の技術」をつなぐ最も重要な鍵だったのである。物語の本質的な解明こそが、情報処理をめぐる革命的なニューパラダイムに近づく最良の方法である。

 このような考え方をもとに、オペラ・プロジェクトでは、物語の構造的特性を生かした情報作成支援機械としての「ナラティブナビゲータ」(Narrative Navigator)と、世界の普遍的な物語類型を備えた大型知識ベースとしての「大規模キャプタベース」(Narrative Captabase)を構想した。

 ここでは紹介しないが、ナラティブナビゲータは、世界モデルを持った物語作成支援機械であり、新たなエディティングコンピュータであり、また新しいワードプロセッサをめざすものである。ユーザはこのナラティブナビゲータによって、自分の好きな物語型の情報編集が自由にできるようになる(図3)。

 大規模キャプタベースは編集工学型の大型知識ベースであり、世界の物語の原型を収納したマザーシステムである。世界のユーザたちはこのシステムにアクセスすることによって、物語に内属するすべての知識情報を参照できる。なお、キャプタベースの「キャプタ」(capta)とは、「引き裂かれた自己」、「自己と他者」などの著書で知られる、先頃亡くなった心理学者 R.D.レイン(R.D.Laing)の用語で、解釈可能なデータを意味する。レインは、人間は意識の活動やコミュニケーションにおいては“data”を扱っているわけではなく、“capta”ともいうべき、つねにさまざまな解釈で変容させる情報単位を使っていると考えた。言い換えれば、レインは「意味データ」をキャプタと読んだのである。筆者らも、キャプタを「編集可能なデータ」とも説明することがある。

 オペラ・プロジェクトは、このナラクティブナビゲータとキャプタベースという二つのシステムの開発を主眼にする。研究開発のプログラムはほぼ次のような段階を踏む。

  • 物語の基礎研究、物語構造の分析、物語型情報単位の検出
  • 物語時空モデルの設計、情報ナラティビティの機能研究
  • 物語型オーサリングシステムと研究支援システムの開発
  • 物語型知識情報のメディアオブジェクト化、そのハイパーリンク化
  • マザーシステムのプロトタイプ化、代表的物語アーキソフト化、物語の要素別マルチメディア化
  • ナラクティブナビゲータの開発
  • 大規模ベースキャプタベースの開発

 では、このあとは簡単に大規模キャプタベースの設計思想を紹介しながら、今後の大規模知識ベースの将来像にも少し触れることにしたい。以下の内容についてはすでに多くの研究者や技術者の協力を得ているが、特に筆者自身の知見と北海道大学の田中■譲教授とのディスカッションを中心に発展したものである。

7. 大規模キャプタベースの構想

 我々にとって主要な知識はすべて連環するものである。その連環を一定の様式で支えているのが物語という構造である。

 もともと知識には三つの軸が、それぞれいくつかの知識領域を持ちながらも、これらを相互に交差させて構成されている。まず、ひとつめの軸(軸A)として、パーソナルな知識からグローバルな知識に向かう「個別知」、「共同知」、「世界知」という三つの領域がある。個別知の奥にマイケル・ポランニーが重視した「暗黙知」が、世界知の先にはライプニッツやヘーゲル、あるいはホワイトヘッドらが重視した「普遍知」があり得るが、基本的には三つの知識領域によって知識が個人から世界へ向かい、また世界から個人に向かって構成されていると見てよいと思われる。この軸の知識はデフォルト構造を持ちうる。

 もうひとつの軸(軸B)は、知識を現場的なものから幻想的なるものへと拡張させている軸である。ここは内蔵知覚に始まる「臨床知」、簡単な自然現象あるいは単純な人為的現象によって得られる「観察知」、学問が固有する多岐にわたる「専門知」、小説や演劇が好む「虚構知」、これらの全体を眺望しようとする「統合知」、さらには人々を幻想的な飛躍に運ぶ「空想知」といった拡散的な分別が見られる。むろんここにも、例えば宗教的瞑想に現れる「内観知」、精神異常者に顕著な「異常知」、猛進や迷信を前提にした「執着知」などがあり得るが、これらは知識ベースからは当面除外しておける。

 三つめの軸(軸C)には、手続きのための知識や推論過程のための知識、あるいはこれらのなかで最も重要な知識のつながりを担当するメタフォリカルな知識などが配当できる。文法的な知識もここに入れることができよう。

 我々はこれらの知識をさまざまな場面や機会で使い分け、また連動させている。本来、知識ベースというものは、これらの知識の着脱自由な多層連環構造を持っていなければならない。

 物語構造にはこの連環構造がある。物語は、これらの知識をプロット、シーン、キャラクタ、ナレータによって巧みにつないでいるばかりか、一連の知識を縦に横に自己編集する仕組みを持っている。筆者らはこのことから、知識ベースに物語構造を積極的に持ち込むことを発想した。

 大規模キャプタベースの最大の特徴は、物語構造を母型化したマザーシステムを持っているということである。つまり、このシステムには物語の母型が入っている。したがって、そのシステムは、第一には、物語的奥行きを持った「開放型統合アーキテクチャ」でなければならず、そこには物語知識を連環させるための並行オブジェクト指向型のエージェントモデル、物語の構造的要素であるプロットやシーンをメディアとして捉えるシンセティックメディアシステム、それらの物語要素メディアの相互性をつなぐインタフェースエージェント、およびキャプタベースの物語時空そのものを管理するマネジメントシステムなどが必要である。

 また、知識を物語的に展開させるための基本モデルにあたる「ナラティブオペレーションモデル」が、筆者らの命名では、例えばトランスミッションジェネレータ群、リファレンシャルオーガナイザ群、コレスポンデンタルジェネレータ群などによって構築されていなければならない(図4)。

 しかし、いっそう重要なのは、中核にあたる「ナラティブメディアベース」で、ここには、上記の三つの軸による知識の連環を物語構造に則して設計されたアルゴリズミックな“物語劇場”がつくられる。そして、この“物語劇場”こそがマザーシステムの本舞台にあたるものになる。“物語劇場”には、一般の劇場構造が上手と下手、多層のホリゾントスクリーン、照明装置、音響システム、回転舞台、せり上がり装置、各種の幕などを備えているように、さまざまな知識の劇的化に必要なサブシステムが準備される。しかし、ナラティブメディアベースにとって最も前提になるのは、物語型要素情報を検索するための編集工学的な情報検索システムと、オムニプレゼントな視点とオムニシエントな視点を持ったスクリプト型ナレッジベースである。

 また、オペラ・プロジェクトで「オペラ・レキシコン」と通称している辞書機能、すなわち物語語彙マネジメントシステム、物語文法を管理するナラティブグラマオペレータ、および知識間のリンクを指示できるコノテーションディクショナリ(内示辞書)も装填されなければならない。このうち、特にコノテーションディクショナリは知識ベースの隠された本質ともいうべきもので、その開発には一般的に困難が伴うものとみなされているのだが、筆者らはすでにコノテーションディクショナリの基本単位構造ともくされる「物語情報単位」(narrative infon)の解明を済まし、その開発に自信を持っている。

 この「物語情報単位」は上記の三つの軸による分類とはまったく異なった方法で編み出されたもので、簡単にいえば、物語の出現する基本場面の構造分析に基づいている。例えば、ここに一本の棒が立てられているとすると、多くの物語ではこの棒が世界の中心を表す樹木になったり、家の中心の柱になったり、また棒が横たわっているときは道になったり河川になったりし、この棒の両側にあるもの、例えば二人の人物は、原則的にアダム=イブ型、親子型、兄弟型、敵味方型といった関係をとる。そうだとすれば、この棒の出現を軸に、我々は多くの知識の単位を物語的に特定の場面に管理させておくことが可能なのである。そして、棒だけはなく、これを山、海、空、石、武器、衣装、乗り物などと変えていくことによって、そのたびに新たな物語情報単位の“意味単位地図”を入手できることになるのである。また、このことから準じて、筆者らは「物語情報単位」が独特の意味のネットワークを形成し得ることにも気がついた。

 このほか、我々の構想する大規模キャプタベースは、知識ベース自体をナラティブライブラリとみなさえるため、当然のことではあるが、各種の物語の基本型そのものを入れることになる。筆者らの当面の計画では、世界中の物語を百タイトル選び、これらのアーキソフトを収納する予定である。また、物語にはさまざまな関連情報、例えば時代背景、作家著者情報、地図、年表などが付属し得るが、これらも収納する。

 こうした既存の物語の収納は、この知識ベースを活用するものに(そのアクセスのためのナラティブナビゲータが開発される)、いわばナラティブミュージアムの体験をさせることができる。これは物語の筋を多様に選びながら、各自が思い思いの知識を渉漁しながらインタラクティブアクセスができるヴァーチャルミュージアムを構成するものでもある(図5)。

 なお、ここでは触れられないが、オペラ・プロジェクトでは、このような大規模キャプタベースの開発過程、あるいはナラティブナビゲータの開発過程で多くのパイププロダクト的なソフトおよびツールを開発する予定である。これらはオペラ・プロジェクトに対する企業や研究者の参加形態によって、メーカーに託されたり、ソフトハウスに権利を譲ったりする予定であるが、例えば以下のようなものが想定されている

  1. 子供からビジネスマンまで対応したクラス別電子日記
  2. 電子アーキソフトに対応した書物を越えたブックスオペラ100
  3. アーキソフトから派生する多くの物語のゲームソフト
  4. 編集自在のオーサリングツール
  5. 清書機能付きのシーングラフィックツールやペインティングソフト
  6. スクリプト編集型ニューワードプロセッサ
  7. 次世代SIS
  8. 各種教育用の学習ソフトやコースウェア
  9. 世界の物語を簡単に遊べるインタラクティブナラティブズ
  10. その他

 以上、ごく簡単にオペラ・プロジェクトを通した大規模知識ベースのあり方を見てきたが、筆者の基本的な考えたかは、これからの知識ベースには人文科学の成果が大胆に導入されなければならないということ、そのためには「文化の技術」と「意味の技術」をつなぐ優れたコーディネータが出現しなければならないということ、知識は我々の脳の中ですら物語を求めているということ、これらを重視することにある。

著者紹介

松岡 正剛

1971年工作舎設立、総合雑誌「遊」を創刊、科学と文化を統合する■■■編集を手掛ける。1982年松岡■■事務所設立。以後、各種の企画・編集・ディレクションに従事。1987年編集工学研究所設立。1991年マルティメディアによる電子物語システムの研究開発をめざす The OPERA Project を発足。

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