魔法


魔法とは何か

 魔法とは何か。
 端的に言うならば、理と意思によって世界を変えることである。

 手を触れずして物を動かし、ライターもマッチも使わずに火をつけ、羽ばたかず飛行機械に頼らず空を飛び、液体窒素を使わず物を氷漬けにし、人の心をねじ曲げ、キーボードを叩かずにデータを改竄し、動物の力も車輪の力も借りずに大地を人を越える速度で駆ける。
 強大な意思の力と「それがそうなるべき」理によって通常の物理法則を超越した「上位法則」へアクセスし、現実を変更すること。
 それが魔法である、と思って頂きたい。

魔法の歴史

 古来魔法には様々な様式があり、様々な方法で魔法は実現されてきた。

 シャーマニズム文化においては祈りを持って魔法が行使された。
 「祈り」という意思により、精霊という対象を通じて世界を変える。精霊とは即ち世界の具体化であり、誓願すべき対象である。
 シャーマンたちは強大な意思の力で精霊と通じ、それを達成したが、代償は直接シャーマンたちに降りかかることとなった。

 続く時代の多くの古代宗教では、祈りに加えて生贄を捧げた。
 祈りという意思をもって「神」の支配下にある多数の法則をねじ曲げ、その代償を生贄によって代行するという「理」がここで発生した。

 「理」を手に入れた人類は、神の力を借り、その勢力圏を拡大した。
 しかし長い時の中で人は知を深め、そしてついに魔法が終わる時がやってきた。

 すなわち、キリスト教の出現である。

 その教義の是非、キリストの存在の如何については、ここでは述べない*1。しかしその教義は魔法の存在に大きな衝撃をもたらした。

 魔法――即ちキリスト教における「奇蹟」は、神の業である。これはそれ以前のものと大きな違いはない。
 しかし神の為さざる奇蹟は「悪魔」の仕業であり、為したものは異端であるとされたことにより、世界の文化は大きく揺らいだ。
 ヨーロッパの文化圏が版図を広げ、それに伴ってキリスト教が広がっていくと共に、数多あった理はキリスト教の「奇蹟」に呑み込まれていったのである。
 これにより、世界から「魔法」を為す上位法則へのリンクが急激に減少した。

 使用頻度の少ない法則ほどアクセスが難しくなる*2。これは世界法則の一般原則である。
 結果、使用頻度の極度に少なくなった「魔法」へのアクセスは難しくなり、使う者が減ってさらにアクセスが減り……と悪循環を繰り返し、どんどん忘れられていったのである。
 こうして魔法の時代は終わった。

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*1 それについて語るには時間も事実も圧倒的に不足しているからだ。
*2 ウェブで例えれば、アクセスがあまりに少ないウェブサイトが回線経路が切られて極端にアクセスしづらくなったような状態である。