立川談志


プロフィール

  • 読み:てかわ だんし
  • 生没年:1936年東京生まれ。
  • 52年東京高校を中退し、柳家小さん?に入門。
  • 63年5代目立川談志を襲名、真打となる。
  • 65年『現代落語論?』を上梓し、落語の将来に不安を投げかける。
  • 71年参議院議員に当選。
  • 82年落語協会を脱会し立川流を創立、家元となる。

読んだ

  • 談志が死んだ?

CD/DVD

参考資料

Memo

さて、立川談志である。立川談志の名を始めて見た時私は講談界の若手の駿馬だと、思った。そんな名である。私は彼に会ったことがある。「ミセス」という雑誌から編集者と行って会ったのである。先ず書く前に、これは談志の悪口ではないということを断っておかなくてはならない。彼に会う日私は、彼の太簿追うな人間なのをわかっているので先方の指定の時間に指定の場所へ行く旨を伝えて貰った。さて指定の或劇場ロビイに行ったが、待てど暮せど現れない。やがて彼は来たが入り口に附人と二人で停電しちゃってこっちへ来ない。(見ると談志は、魚籠をぶら下げている。中は空らしい。察するところ釣りに行ってちっとも釣れないのでもう一寸、もう一寸と思って遣っている内に時間が経ったのだ)「おい十五万円どこい落したんだろう。舟かな、いやちがう。車? ちがう」と揉めている。当時貧乏だった私は、十五万円落すなんて、なんていいんだろう、と思っていると、その休憩所の向う側の壁際に一人、ぽつんといた人間が談志の知合いらしい。「おい、人が金落したってのに笑いやがって」。するとその笑った奴が、今先刻火事があったよと言うと談志は目をとび出しそうにして「火事?」と言った。私はすかさず「談志さん、火事好きですか」と言うや談志は「だあい好き」と、二重目蓋の目を一杯に見開き、私の前に卓子(テエブル)を距てて設けられていた椅子へ一直線に来て掛けたのである。前に私は日本人の火事見物の群集をやっつけたが、談志は別である。小さんの弟子で江戸っ子、幼い時は横丁のガキだった談志の火事好きは別だ。「だあいすき!!!」と言って目を一杯に大きくした談志の中に私は棒切れを持って犬を追い廻し、石蹴りやメンコに夢中になって、暗くなっても帰らなかったガキを見た。ガキもただのガキじゃない。悪ガキだ。私は落語家でも何でも魚に譬えると、体の鱗が尾の方からか背中の方からか、少しずつ黄金(きん)の鱗に変ってくるものだと、思っている。鱗が全部黄金になり、その黄金の光がそこへ沈んで燻した黄金になった時、その落語家は名人だ。私の目で見ると談志の鱗はボツボツところどころ黄金になって来ている。円楽?の方は最近円生?が死んだ衝撃で、黄金の鱗が十枚位一ぺんに殖えた。そうして巧い「仲蔵?」を聞かせてくれた。現在(いま)二人の鱗は殖え比べをしている。談志の落語で好きなところは出てきて座って、酸っぱいような、渋いような、複雑怪奇な渋面を作ったような顔をする箇所(ところ)だ。あれがなんともいえない。又、お囃子に乗って出てくる箇所が、悪ガキが親父にドヤされたような顔をして、天井から宙吊りになったような格好で歩いてくる。噺家の出というのは、役者が舞台裏から舞台へ行く途中を、壁に穴をあけて見せるようなもので、面白いものだ。談志は観物(けんぶつ)を意識しているが、大抵の噺家はそうではない。円生?はきびしい顔で出てくる。

前々回だか、それよりも前だかで、談志が私に話したことについて書くのをうっかり忘れた。私の前にある椅子へかけるまでの話があまり面白かったので、その後を書かずに了った。その時の談志の話は円生の徹底攻撃だった。彼の言うのを聞くと円生?は、町の長唄の師匠が所謂良家の子女に教える時に使う稽古本のように、エロチックな面白い箇所(ところ)を品よく変えているというのである。つまり、油屋の一人娘にお染とて、年も二八のいろざかりを恋ざかりに変えるような風に、品よく変えている。それはまちがっている、というのである。私は円生を見て、道楽をし尽している人物だと思ったので、円生?はそういう人物だから寄席の場所柄や、その日の観客(けんぶつ)の種類によっては昔通りにはなすこともあるのじゃないだろうかと思ったが、私もその談志の意見に賛成である。又、或日円楽?に電話で、テレビで対談を断った理由を話して、詫びを言った時、円生の「死神?」の終わりに、(消えた……)と言うのが大変よかったと私が言うと、円楽?が、それには二説あって、消えた、と言うと、もう死んでいるのでそう言える筈がない、それで(消える……)というのが正しいという人もあると言った。私はその時、それは理屈はそうだが、消えた……の方が凄みがあるから、その方がいいと思うといい、縁楽もそれに賛成したのである。


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