『翁』という能の中でのことです。幕が上がり、舞台中央までゆっくりと進んだ翁(シテ)は、座って「とうとうたらり、たらりたらり、あがりらりらりとう」と謡い出します。そして観客の前で面をつけます。面をつけた翁がいよいよ舞に入ります。そこでの翁への演出の指示はつぎのふたつです。
「体はそる心、両眼をふさぐ」
いったいどういうことなのでしょうか。体を反らせるのでなく、体を反らせる気持ちになれと言っているのです。さらに不思議なのが「両眼をふさぐ」で、面をつけたばかりの翁が眼をふさいでどうなるのでしょうか。
じつは、能の演出にはこんな不思議なことが多いのです。これらの演出には、身体と精神の融合という能の本質へのヒントが隠されていたのです。
自ら演じる立場の著者は、演技と練習を通して、それらが何を意味しているのかを考えてきました。
この本では、能舞台?や装束?、面?、役柄、歴史という基礎知識はもちろん、「型附?」という秘伝書には何が書かれているのか、世阿弥が到達した最高の美は「幽玄?」かなどの本質論まで、演技者であり思索家でもある著者が存分に解説します。
『翁』はこんなストーリー、『道成寺』はこう、……という能の入門書はよくありますが、まったく違う新しい能楽入門です。