彼は何ゆえに睨むか!?
宮本武蔵で眼のちからを見せつけた歌舞伎随一の若武者。
助六のしゃべりと睨み、弁慶のドラマ性など「茨を求める」芸の本質に迫る。
●かつてない「宮本武蔵」が現れた
●弁天小僧?の「女装」は何故必要だったのか
●弁慶?という役の「重さ」
●勧進帳?読み上げの「強さ」と「深さ」
●奇跡の「出端」
●匂い立つエクスタシー
●助六?と揚巻の「愛のかたち」
●新之助の正統な「異端性」
●十一代目團十郎?の面影を越えて
●「何をしてもゆるされる」生まれながらの光源氏
何故、今、市川新之助か――
新之助は敢えて舞台に「茨を求めた」のである。直球勝負。彼の舞台を観る時、私たち観客の心のミットには、ズシリとした感触がいつまでも残る。新之助の演じる人間たちは、古典にせよ舞踊にせよ、常に血の通った実在性と肉感に満ち満ちている。
私はこれまで、多くの名優たちの舞台に触れ、その芸に心揺さぶられてきた。六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、初代松本白鴎(八代目松本幸四郎)、二代目尾上松緑、七代目尾上梅幸、二代目中村鴈治郎、十三代目片岡仁左衛門。しかし新之助のように、助六や弁慶が古典劇の枠を乗り越えて、「同時代人」の如く観る者に迫ってくるという体験は希有といって良い。
それは、私にとって一つの「事件」であった。その「事件」を、歌舞伎界の正嫡たる新之助が実現したということに、私は衝き動かされた。その存在感の源泉を知りたいと思った。――(本書より)