議論に参加するに当たり、自分が持つべき視点
- 「人として目の前の事態にどう対応するか」、という視点
- 「研究室の一員が持っている役割」、という視点
- 研究室の一員が持っている役割とは、先生の決定があまりに理不尽でない限りその決定の中で自らのベストを尽くすことであると思う。すなわち、先生が河田さんを輪講に復帰させると決定したならば、河田さんのいる輪講において、自らができる最大限の貢献を輪講で行われる議論に対して行うことが私の責任なのだろう。
- そうだとすれば、今すべき議論は、「先生の決定は、私が自らの枠を超えてまで、人としての正義を信じはむかうほど理不尽な決定であるのだろうか」ということである。
先生の決定は理不尽なのだろうか?
- 理不尽さを考えるための議論のポイントはどこ?
- 僕らが学生の立場から理不尽さを議論するポイントは、
僕らの実害と、河田さんの利益のトレードオフが理不尽なほど河田さんに偏っていないか 河田さんが輪講に復帰することによる僕らの実害が理不尽なほど大きなものでないか、ということである。
- 僕らの実害とは、河田さんと接することによる精神的ストレスである。
- 僕らの精神的ストレスの原因としては、以下の原因が考えられる。
- 再び暴力的な行為を受けるかもしれない、という不安による精神的ストレス
- 長期に渡って精神的ストレスを受け続けてきた人間と、日常的に顔を合わせなければならないという、トラウマを刺激することによる精神的ストレス
- 決して付き合いやすい上級生でない上級生ともうまくやってゆくために自分をごまかしたり、演技をしたりする肉体的・精神的負担による精神的ストレス
- 第一のストレスは、河田さんと僕ら他学生との接点を輪講という、先生や他スタッフも同席するオフィシャルな場に限ることで限りなく和らいでいるように思う。そこで、この種のストレスは、理不尽なほど大きいわけではないと考える。
- 第二のストレスは、個々人にその程度が異なる類のものであり、ある人にとっては理不尽なレベルを超える可能性もあるが、他の人にとっては理不尽なレベルを超えない可能性もある、という類のストレスである。そこで、僕個人に限って議論をするのであれば、僕はどの程度、河田さんをトラウマと意識しているのか、という問題となる。僕が尋常じゃない程度のトラウマを河田さんに対して抱いているのであれば、河田さんの輪講復帰は僕にとって十分に理不尽な出来事であるとなり、僕の河田さんに対するストレスがさほどなものでなければ、河田さんの輪講復帰という出来事は大して理不尽な出来事ではない、ということになる。
- 第三のストレスは、程度によるものの、どの研究室でも見られる光景であり、精神的ストレスであるように思う。そこで、この種のストレスは、理不尽なほど大きいわけではないと考える。
僕にとって河田さんは、どの程度のトラウマなのだろうか?
- この問を知るためには、精神科へ行く必要を感じてしまうのだが・・・。真面目に河田さん復帰について考えるならば、精神科へ行く必要があるということか!?ま、面白そうだし、今週のどっかでトラウマ鑑定でもしてもらうかぁ。
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