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雑文のぺーじ

[3月][紙の向こうの建築][コンペ][文字の力][働きたい][迷所][まちの創り方][家の創り方][足跡][身体]

20210208 同じ時期の違う場所 昔京都に住んでいていろいろ発信していた人が2015年頃には京都を離れ今は琵琶湖畔に暮らしている事を知った。 そしてネットを検索してもその人の情報は何一つでてこなかった。あんなに頻繁に更新して文字を書いていた人がどこを探してもいない。 何があったのだろう、今は何をしているのだろうと考えてしまう。けれども今この時が満たされていればネットの中の自分というものの中で主張する必要性も無くなってしまうのだろう。その感じはわかるようになった。同じ時期に京都を離れ違う場所に居て何故急に思い出して検索したのか自分でもわからないのだけど。

150505 西沢立衛のレクチャー 京都市美術館でレクチャーがあった。たまたまTwitterで知って時間があったので行って見た。 さて感想は、あっさりしていてよかった。建築を創っているものの自然なアプローチと考えが 難しくない言葉で語られ、紡がれこれからを話していた。 建築と環境と。 有機的な形態と可能性と。 海外で建築を創る厳しさとそれを実現する力とエネルギー。

これまでの建築家の話は難解な言葉を駆使し聞いているものから離れていく会話だったように思う。 会場の人に合わせている部分もあるのだろうが。

なんとなく西沢さんは普通に創っているような気がする。 日常の建築と偉大な建築はかわらない。 プログラムと形態とからのアプローチも少しずつ変わるのだろう。 これまでの違和感がわかる。 自分の目が間違っていなかったこともわかった。

さぁ日常に戻ろう。

120916 日曜日 思いの重さを考えてみた

どこかの誰かは忘れたけれどこんな実験をしたという。
ばらばらの時計の部品を計ったものと、組み立てた後のものを計ってみたら
後のほうが重かったと。
で、組み立てる最中に組み立て者の思いがプラスされたのではと。

昔見たスモークという映画を思い出した。
煙の重さをタバコをすう前とすった後の灰で計ればわかるという話。

建築の中にも思い入れを込めて設計されたもの、建設されたものと
なにも込められずにつくられたものに、なにがしかの違いがあるのではと思っていたが
もしかしたら、同じようなものが含まれているのかもしれない。
込める思いが大きければ大きい程、なにがしかが表面に現れるというようなものが。

こないだテレビのインタビューで高倉さんがいっていたではないか。
思いは見えないけどフィルムに映ると。

同じ気になることが同じ時期に同じことを考えさせる。
相変わらず全てはつながっている。

120729 日曜日 家の時間を考えてみた

時間の中に人の時間、象の時間、鼠の時間があるように家にも時間が流れている。
誰も住まなくなった家は朽ちる時間が早い。誰もいないため窓を開けられることもなく
水道も使われず、その中の時間はそのまま止まってしまっている。
人の身体は水で作られ、呼吸をし空気を取り入れ、血液という水分が体中を駆け回っている。
そんなふうに家も窓を開けて息をし、水道を使うことで配管の中がたえず掃除されている。
家の中に誰もいなくなり、何もしなくなるとそういった代謝がストップする。
だから人が家の中にいる間、家の時間は流れている。
誰も気にしていないだろうけど、人が意識して呼吸や水分補給をしないように、家はそうやって時間を生きている。
だから人の住んでいない家を見るとさびしくなる。
生きている時間が止まり朽ちていく時間をすごしているだけだからだ。
こうやって暑い夏の日にビールを飲みながら古い家の中にいるとそんなことを考える。

120525 通い道の家

ずいぶん前から気になっていた住宅の設計者がわかった。長坂さんだった。しかもRCと思ってい建物は木造だった。街に対しての表現はうまいなぁと思う。変にデザインしすぎることもなく、そのデザインの深さを感じさせることもなく、自然に佇んでいる。

110226 存在感の感じ方

建築雑誌を立ち読み。様々な若手が工夫をこらしてページを飾っている。にぎやかなのはそれはそれでいいのだろうが、流れて行ってしまう。けど皆細かく工夫をしているものだ。ただ心に留まったものはそれなりに名前がでているナスカの八木さんと長谷川逸子。この2人の建築は気をてらうでもなく、力が入っている感じも無いのだか上手い。プランの構成、全体とのバランス、取り合いの自然さ、そういったものに納得する。好みの問題もあるかもしれないが、この力の差はなんだろうか。

100514 臆病な時代

百年に一度の不況と言われる時代に入り、これからの建築の方向や人の思考の内側を考えた時、臆病さという言葉が浮かんできた。デザインはフラット化していき、世界はますます一つになっていく。力強いデザインは少なくなり不安定さやランダムなデザインがあちらこちらに見受けられるようになる。それらは繊細と呼ばれたり、透明と呼ばれたり、ナイーブと呼ばれたり、センシティブと言われたり。 それらは総じて臆病さへとつながっているのではないだろうか。確信されたデザインからは少し位相がずれているのではと感じるようになった。この感覚はいったいなんだ。

091223 コンピューター化する建築

巷にあふれる建築雑誌。日本の不況感とはうらはらに、世界のプロジェクトはどんどん建築とアートがわからなくなってきていて手書きで書いた図面からはつくれないような建築が立ち上がっている。世界中にいける恵まれた環境はそんなにないから雑誌でしかそういう新しい建築はお目にする機会がない。そのなかで建築のビジュアルはコンピューター化し構成は自由になっていっている。現れる新しいユニットや建築家、これまでにどこかで見たような構成が現れては消えていく。日本のマンガの中に立っていた建築、そんなものが今現実に目の前に現れだした。世界の建築が同じ方向に向かっていっている。グローバル化とか唱えながらメディアだけがそれを追い、読者やアイデアを持たない建築家はそれに振り回される。構成から生まれる新しい建築は底をついたんだろうか。今年はそんな意識をもった。

ライト シビックセンター090430  偶然近くにいったことから、シビックセンターを見ることができた。 雑誌や作品集

精神論

ずいぶん前から精神論が苦手だった。なにか胡散臭さを感じていた。頑張ること ややる気という言葉が苦手だった。そういうことをよく持ち出す人がいる。僕に は頑張ることややる気は具体的にどういうことかを知りたいのだが一向にそんな 具体的な事にはつながらない。いつまでも目に見えない気分のはなしだ。そんな 気分より現実目に見える形でのほうがわかりやすいと思うのだがそうはならない 。不思議なものだ。具体的な話ができない人ほど精神論をするような気がする。 具体的な話をする人は話が早いのだ。考えている事も言葉にするのがうまい。精 神論をふりかざす人ほどコミュニケーションがとれない。やる気を見せてみろ、 頑張れ、全く目に見えない。そんな人ほど人が無理をすることが頑張ややる気と 勘違いしているのではないだろうか。そんな人ほど無駄に頑張ることしか知らな い。精神論はたくさんはいらない。具体的な話を積み重ねた最後にたった一言、 じゃあ頑張ろう。それだけでいいのだ。

コミュニケーション力

コミュニケーションをとる気のない人が、コミュニケーションは大切だという。人の話を聞く気のない人が、自分に向かって話せという。自分を棚上げする人をあなたはどう感じるだろうか。小さな心を見つめ、大きな心を持ってそれに接するべきなのだろうか。対等な立場を勘違いし、自分は上だと思っている人々。自分を見つめることをしないで人に押し付ける人たち。こんな人たちを前にして何を語ればいいのだろうか。言葉尻しか見ることができず、大筋からでなくディテールから始まる。馬鹿にすることよりも先に理解ができない。いい大人がこんな会話をしているのだから。いったい何様からはじめたらいいのだろう。

TOTO通信を見て

近頃のトイレ事情をご存知だろうか。トイレを綺麗にしたら集客が上がったという話もあるという。さてちょっとびっくりしたトイレ、今回は大丸上野店。ゴンドラという設計事務所がかんでいるトイレ。トイレの綺麗なレストランや飲み屋はそれなりにインテリアも綺麗だと思うがこのトイレは面白い。まぁ、男子トイレの話になりますが、女子もちょっと聞いていていただきたいところ。このゴンドラの代表は女性。このトイレ、便器の位置が窓に向かっている。東京の大都会に向かって原っぱでおしっこするような感覚とでもいうのだろうか。便器の向こうが大都会。面白い発想だなぁと思う。こちとら駅のトイレでホームが見えるだけでちょっと恥ずかしいと思うのだけれど、ここまでオープンでしかもビルの高層階だと気分もいいのかもしれない。    ただ、ここまでやるなら便器も透明にしたいと思い出すのがちょっと難儀。便器をなくし、昔のいなかの小学校、または中国のように壁にむかって用をたすというか、その壁をガラスにしてもう、街に向かって用をたすというか、そこまで突き抜けてみたい思いに駆られましたとさ。

横断する思考、重ね合わせる視点、つながりの道順、つながりの場所  見合わせる場所、居合わせる場所、またげる敷居、生み出す力

近頃の雑誌

なんかちがうんだよなぁ。

ネガティブとポジティブ

一面の状態を簡単に捉えるとその二面になる。前に進む力、とどまる力、また戻る力も必要になる。  単純に前に進むことよりも、引き返すことのほうが決断力を伴う。明らかに間違えている場合は当たり前に行えるが、可能性を見据えながら戻ることは倍のエナジーを保存しながら、さらに遠くのものを見据える必要がある。デザインは単純にすればするほど切り落としていく部分をもっている。技術はそれを否定する方向に働くときがある。切れ味とはそんなものである。

チープな家

最近の雑誌にみる建築情報は、狭小住宅、マンションと小さなものを 大きく取り扱う傾向にある。記事につけられるタイトルはキャッチーでそれがさも すごいようにイメージづけられる。若手の建築家は自分のスキルを自慢し メディアの波に軽やかにのる。たくさんある情報から実際にいい建築を 読み取るのはもうプロの仕事かもしれない。グラビアを飾る建築が増えよしあしの基準は グローバルになった。個人の基準でデザインは語られだし、流行がそれを後押しする。 グラビアになった建築はピラピラな紙を踊る。 豊かな空間を読み取ることは簡単でなくなった。コピーがそれを助長している。 あなたにとって豊かさとは。狭さは豊かさにはつながらない。

方法

あなたが何かを作りたいと思ったときまずどうしますか。 その創り方がわからない、そんなとき、ネットを駆使して半日掛けて 創り方を調べますか。けどそれでもわからない。 そんな時どうしますか。つくるのをやめますか。 やめられますか。 もしそれをどうしても創りたかったら、あなたはあなたしか できない方法でそれを創ることにチァレンジできるいいチャンスを 手に入れたことになる、とてもいいタイミングにいることになる。 あなたにしかできない方法。 方法を創ることを忘れていませんか。 どんな方法であろうがそれは創ることができる。 これまでにみたことのない新しい方法も。

ディテール本    近頃ディテール本が目に付く。新しい技術にディテールが追いついていないのか、単なる流行なのか、逆にディテールがわからないことが増えているのか。ディテールは思考の痕跡として表面に現れその裏は見ることができない。そこでなにがおこり、完結されているのかははかりしることが見ただけではわからない。 改めてその断面を見ることにより、納得することもあれば、がっかりすることもある。裸にされた自分みたいだ。

身の回りのアート 気にしないですごしていると周りの景色は瞬く間に変わっていく。知らない間に建物は消え、また創られる。  消えていく景色、消えていく材料たちをみていると、時々、そのものたちがまったく違ったものに見えてくるときがある。それまでに形作っていたものがその働きを終えたとき、見る視点を変えてみるとき、機能を離れてしまったとき、アートとしての潜在的価値を見るときがある。なにもない廃墟の中に芸術が立ち上がる。  見逃していく景色に多くを教えられることがある。

本質を探す 道

20080110 いまなぜ建築をデザインすることを考えるかというと、ひとつのものを生み出す 時に要されるエナジーとそれに費やされる時間、他エネルギーを考えると変わり のものを生み出すことは不可能だからだ。破壊することから始まる建築は環境を 考える上でやりすごすことはできない。生み出される建築はその存在する意義を 考えないといけない。単なる経済活動の流れにしかすぎない建築の中に留める為 にデザインが必要なのだ。デザインはいたるところにころがっている。誰でも形を作り、ものをデザインすることができる。それを生業にするなら、そこに何があるのかを考え埋め込む作業がいるのではないか。簡単フォルムの中に潜む本質的な形。目に見える形を超え時間とともに進化する形。とどめる形に込められた変化する意思。もしそれがとどまり続けるならそれは本質に基づいた形なのだろう。サスティナブルなデザインはそういったものではないだろうか。デザインをするということはそういう行為ではないだろうか。 今、そこにあるデザインは美しいだろうか。

20071115 オリジナルという最も近いところにもっともっと遠いオリジナルというイシを投げる。

ゲーリの建築が訴えられた。MITの建築をゲーリーが作ったという時点で面白さが 出来上がっているのだが、その続きが出てきたわけだ。 建築の合理性、必然性、必要性の中にあるものから、ゲーリーの建築の有機性、創造性、 、芸術性がどう評価されるのかというところではないだろうか。 ミースの建築の延長からは外れているゲーリーのデザインスタイル。 ひとつのスタイルとして世界中に散らばっている。 実際のその他の建築群はどうなっていて、どう使われ、どう感じられているか興味がある。

せじまさんの集合住宅。地下に埋まり視覚が交錯しつながりも交錯する。 自分の家の上に他の人がいて、隣の壁にも違う部屋。お互いがそうだけれど、これまでの 共同住宅とは違う。ランダムな流れはにしざわさんに似ている。ちょっと前のはやり。

あなたはどこへ行く?

人は階層的心を持ち 生活は教わるものであり 学ぶものではない。 階層はリンクしたまに飛ぶ。 つながりは目に見えない。

脳力アップするための照明のポイントが3つある。照明術の基本要素。

1 光の色 朝方や昼間の色は人を活動的にし、夕焼けの色は心にやすらぎを与える。

2 光の高さ 光が頭の上にあると興奮、下がってくると落ち着く効果

3 光を当てる場所 直接照明と間接照明、どこへ当てるかで異なる効果。

適切な組み合わせの照明を作ることが大切なのである。その方法論がこの本のメイン部分である。かなり参考になった。

光にはさまざまな効能があるのだ。

朝方に強い光を浴びると身体のリズムが調整される。睡眠不足や時差ぼけの解消に光が使える。また光でうつ病を治す光療法というのもある。光の色で体感温度が変わるので照明によって冷暖房の省エネができる。光の威圧効果でプレゼンの効果を高めることができる。料理をおいしそうに見せるだけでなく、味覚を照明で変えることができる。揺れる明かりは異性を口説くのに効果がある。泥棒が入りにくい照明がある、などなど。多数の効能が紹介されている。

照明だけで部屋のリフォームができると著者はそのやり方も紹介していて、部屋の模様替えの参考になる情報もいっぱいあった。調光器で明るさを半分にすると消費電力25%ダウンで電球の寿命は10倍に伸びるなどという節約術まで。

やはり私が一番気になったのはオフィスの明かりである。どんな照明にしようかなんて考えてこなかった。照明を変えることで生産効率を1%でもアップできるなら、何十人もいる部屋だったら全体ではかなりの改善になる。経営課題に乗せてもいいくらい重要な問題なのではないだろうか。

http://www.aalab.com/menuj.htm

http://www.c-channel.com/

20060321格差社会と年寄りと
小学校への補助金による生徒の増加
塾にいく生徒といけない生徒の差
年金をもらえる団塊の高齢層

そしてこれから始まるその高齢者に向けての商売合戦
徐々にいろんなものがシフトしていっている。実際にそのものたちを前にしてどう感じ考えるのだろうか。

構造計算偽造問題 今回のこの事件。単なる構造建築事務所の問題に思えない。これからいろんな調査が進みいろいろなことが解明されてくると思うが、メディアはきちんとそれを整理して報道、報告してほしい。  この偽造で建築事務所がどれだけ儲かったというのだろう。建設費から比べたらその比ではないと思う。なんのために偽造することが必要だったんだろうか。そこがわからない。

061225 姉歯氏の判決がでた。逮捕は名義貸しではなかったか。(建築基準法違反や議院証言法違反などの罪)懲役5年罰金180万円の実刑。偽装が問題になったのだろうか。偽装は始まりであり彼の罪は名義貸しではなかったのか。何かが途中で捻じ曲げられ本質の偽装の中心点がどこにも語られていない。マスコミはもう諦められているから仕方がないがそうでない場所の追求を見ていこう。

元気をもらうエネルギー。自分の中でなにか停滞しているエネルギーがある。それがわからない状態の中でそこを障るものがある。その元になるエネルギーに対して感じている部分がそこを障っている。その力を持つことが必要だと思う。きっと出されているエネルギーはそれに気づかせるための力。そこにしかない力。発するものを受け止める力も必要だがそこに行く元になる力もきっと必要。

景色をつくる。重なる景色。木陰。

スローランド プロジェクト

外から島を見る

「岐阜県立飛騨牛記念館」北川原温

コンバージョン

サスティナブル デザイン

リノベーション

記憶の中の風景、フォーマット

SHARPのAQUOSのCMの住宅が気になる。 ので調べてみた。

[草とガラスの家編] House in Wales/Future Systems/イギリス/1994 [大地と岩の家編] Boulder House/Charles Foreman Johnson/アリゾナ/1982 [光と竹の家編] great bamboo wall/隈研吾/北京 [水平線の家編] ニュージーランドにあるということ以外は不明。検索に引っかからなかった。

CMのタイトルは、「ニュージーランド 水平線の家」 ロケ地は、ニュージーランド北島コロマンデル地方。 壁がぐいっと開くところがとても印象的ですが(オープンエアというらしい)、なんとこの家、個人の邸宅とのことでした。

えっと...、設計者は、Crosson Clarke Architects(クロッソン・クラーク・アーキテクツ)

建築の匂いを感じたことはあるだろうか。  匂いといっても物理的な匂いではない。空間とでもいうのだろうか、その場所の感覚だ。  建築雑誌や実際の建物を見に行っていて、その設計者の意識を感じるものと、そうでないものを感じるときがある。  後者はどこかで感じたことのある感覚であり、何かの物まねの匂いがする。前者は何かの物まねであるが、その人の匂いがするのである。

どんなにうまく造られていても、その人の匂いは感じない、そんな空間がある。別におかしなところは感じないし、最近流行の材料や、照明や、、、いろいろ工夫してあり、それなりにいい建物になっている。  けど、その人の匂いがしないのだ。今の30代の人たちは師匠のいない世代も多く、匂いがしない人達が多い。が、実際考えてみると、くせのある人達はやはりそれなりの匂いを持っている。それに比べて、うまく造る人達の中に匂いがない人達も多いのだ。うますぎて匂いがしない人もいるが、そうでないものも感じる。オリジナルがない時代になり、造ることは何かを手がかりにしていかなければいけない中で。  建築の匂いとは、建築家のエゴなのだろうかと、そんなことを考える近頃です。

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