忘れてもいい最近気になること


20210220 キイオブライフ asayakeの中で

https://www.youtube.com/watch?v=oCh_EY8E87k

どういうわけか今気になる音。理由は不明。カシオペアのオリジナルも。けどこの時代に手には入らない。ネットの中ではいつでも手に入るというのに。

20210211 建国記念の日

 宿泊先について調べる。値段の付け方、ホスピタリティのあり方。観光地における宿泊先。これからの産業。

https://daichijapan.jp/

考えてることだ。

20210210

別れていく世界。得意になる人たちと入れない世界。ネットでバズらせることと地域にチラシやポスターで広めること。デジタルとアナログがべつな世界を作り別な地域さえ作っていく。どこの世界に自分はいるのか、いたいのかを考え選ぶ時代が来た。

20210209 更新されないサイト

https://www.kurousagi-ryugaku.jp/

20210208 コロナ禍の中でこのブログのことを思い出した。何かを記録したい時でもあって偶然性もありこうしてまた書き出す。 現状コロナがどんな病気なのかわからない。ウィルスが身体に定着して何年も残る。遺伝子の逆転写で残ったウィルスはいつか何かのきっかけで再度活動しだすのだろうか?自分の身体をどういう状態に保つことが今後の世界を泳ぐことにつながるのかまだわからないでいる。

20140405 本屋で建築知識を見てかんがえていた。雑誌に出ている図面に数字が多いのだ。以前は細かい数字がなっかった。 けど今はこれでもかと数字がうたわれている。なぜなんだろうか。以前コピペの建築を書いて考えていたのだが、 近頃人は考えることがなくなったのではないかと。ないかを見てそれを移すだけ。中身を感じ感がることがない。 だから数字が書いてあることに安心感を覚えそれを利用して行く。 以前は自分もそれを求めていたように思う。けど今は余りにも過剰になりすぎている。 社会全体が過保護になり当たり前化している。自分で考えわかることなしに理解したつもりになる。 建築も生化学も同じことをしているのだ。

2014年1月1日水曜日 朝からサーモンベーグルとミモサでお正月。 何か吹っ切れた感覚の始まり。次元が違ったり心が違ったりがわかった去年の後半。 今年の始まりに考えることはそんなこと。 もう相手を考えることは終わりにしよう。自分ではどうにもできないことが理解できた。 祈りが通じることもない。 世界がパラレルで今は一瞬しかなく多数の次があるのに、存在することができるのは一カ所でしかない。 一つの線は二つにはならないのだ。 なにかをつかむには、今握っているなにかを手放さないといけない。 手は二つしかないのだから。

神宮の式年遷宮 日本人について考えている。どこで生まれようが日本に属し、子供の頃から日本の 文化にふれていると自分の自生ではなく日本人になっていく。勝手に。 日本の文化におかされていく。それが良いものであるかのように巻き込まれていく。 自分の地域の小さな文化はますます小さくなり大きな文化はますます大きくなる。 世代や年代の問題ではないはずだ。 それに価値をみいだす価値観の問題だ。自分の地域に足がついていたら気にならないのかもしれない。 若い時は年配のものに反抗する気分で大事なものが見えていない。それは若さによるものだ。 だから年齢は重ねないとわからない。 自分が生まれ育った地域にこそ本当の自分の文化が息づき存在しているのに。

納まりについてかんがえている。 デザインにおいて、なにするにせよ納まりはついて まわるものである。当たり前である。納まっていないと言いながら つくられているデザインは枚挙にいとまがない。 で、それを美しくするにははっきりと見せるデザインと隠すデザインに 分けると考え易くなるのではと考えているのだ。 デザインを考える時最初からそういった考えで入るのだ。 費用の問題もあるが、より美しく造る為にそのほうが良いのではと 考えている。なんかアップルがそんな感じなのかなぁと思うのだ。

建築家がつくる空間と建築士や設計士がつくる空間。その違いはなんだと思う。

クリエイターとコピーター 今のご時世コピーアンドペーストでいろんなことができる。 デザインの世界も同じ。そこそこ上手にコピペを繰り返しうまくまとめることができれば そこそこなものができあがる。 けれど出来上がるのはコピーしたものでしかなく、クリエイトしたものではない。 無から有を生み出すときのわくわく感や不安感を感じることのないものから、現実に心を 揺さぶるものはできようがない。どこかでみたもの、どこかで感じたものが繰り返されるコピーター。 ひらめきや思考から生まれるクリエイター。

メディアが追いかけるもの、 メディアを追いかけるもの メディアから離れていくもの メディアがすべてであるもの メディアを疑うもの

メディアが存在しないもの

僕たちは未来ではなく今を生きている。建築家としてなどでなく、一生活者として社会に関わり地域の中にいる。大げさなことを考えるより、今身近なことから良いと思えることはなんでも始めたらいい。誰かに進める必要なんかない。自分の生活を豊かにすることから始めないと誰かのためになんて、学者の研究と同じで現実味がない。今必要なのは今できることを未来に向けてやることだ。 原発に反対し、節電するものなら、短パンにシャツのスタイルを始めるべきだ。皆がそうなったらエアコンも利用する機会が減る。そうでないものが混在して行き、大勢を中心に据えるから、短パンシャツの人間は社会の中で文字通り凍えることになる。周りのエアコンが強過ぎて。

建築を眺めるコツ いい建築は見てはいけない いい建築は山を見るように、川を見る様に眺めるものだ。目に留まるデザインされ尽くした建築はいい建築とは言えない。きをてらい、あたかも流行りのデザインで作られた建築はいい建築とはいえない。いい建築は飾り付けられていてもいなくても、その骨格ははっきりと、きっちりとしているものだ。佇まいもそれにふさわしくたたずんでいる。そして周りを受け入れその建築の匂いを醸し出している。誰がデザインしたとか、どこがつくったとかはそこにはあてはまる余地は無い。いい建築とはそんなものだ。

ニュースな建築ばかりになり実際に観たい触れたいと思う建築がない

建築が自由になった反動で、勘違いした作り手は、変にこねくりまわし主張し歌 いだし、純粋に美しいと思える建築はなくなった。

面白いものをデザインするのも楽しいが   ほしいと思うものをデザインする 想いを

建築

写真の美しい建築・現実空間の美しい建築

写真の限界、フレームの決まりごと

偽りの写真、写真家の意図、作られた建築写真、創られた報道写真

SANAA

自転車 http://www.giant.co.jp/ http://www.louisgarneausports.com/bike/

http://www.nhk.or.jp/sports2/amefoot_nfl/amefoot_nfl.html

映画 ガタカ

「批評とは無私を得る道である」

デザインとは? 見せ方をつくること。 機能をつくること。 システムをつくること。

ひろがりのある空間へ

フォイエルバッハの「将来の哲学の根本命

時間軸と年と

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