1950 / 06 / 29 アナタハンの女王事件


1950以前

【アナタハンの女王事件】

終戦を知らずにマリアナ諸島アナタハン島に取り残された32人の男性が、たった一人の女性をめぐって殺し合った事件。
すべての原因として処刑されそうになった比嘉和子さんが米軍に救出された昭和25年までの6年間に、11人が命を落とした。
敗戦も知らずにジャングル暮らしをしていた19人の日本人の男性に囲まれていたことから「アナタハンの女王」と呼んだ。

サイパンへ移住して家業の手伝いをしていた比嘉和子は友人とパガン島へ渡り、カフェの女給として働いていた。
18才の時そこで知り合った男性と結婚、22才の時、南洋興発に勤める夫の新任地であるアナタハン島へ。
戦争がはじまり、夫が用事でサリガン島へ出かけた後の昭和19年、海軍に徴用され、
空襲によってはぐれた漁船がアナタハン島に停泊し、島の日本人は32人の男性(兵隊10名、
臨時徴用の船員21名、南洋興発社員1名)と1人の女となった。
彼らは生きるためコウモリやトカゲを捕らえ食った。料理は比嘉が、全員が生きることに必死だった。
食べ物を求めるために駆けずりまわる生活には、身だしなみなど関係なかった。
原始人のような生活の中で、男達は全裸、比嘉も上半身をあらわに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわった。
しばらくは集団生活をしていたものの、そのうちに夫が戻らない比嘉をみんなが狙うようになる。
そのため年長の者の助言で比嘉はある男と夫婦を装い、集団から離れた場所に小屋を建て暮らす事に。
ところが、あきらめきれない他の男達の間で争いが絶えず、不審な行方不明者も2人出ている。
すでに日本は原爆投下され、終戦を迎えていたが、アナタハン島ではそんなことは知るよしもなかった。
米軍の船がやって来て拡声器で日本の敗戦を知らせても、島の者たちは、信じようともしなかった。

終戦から1年がたった昭和21年8月初旬のある日、男達はジャングルの中で墜落したB29の残骸から
2挺のピストルと70発の実弾を見つけた、また機体のジュラルミンから頑丈なナイフを作りだした。
男達が武器を手にしたこの時から、比嘉をめぐる殺し合いが公然と行われるようになった。
比嘉に近づくものは次々と不審な死を遂げて行くこととなる。
相手が殺されるたびに比嘉の新しい夫が会議によって決められるが、争いはおさまらず、
結局、「すべての原因」として彼女を処刑することが可決されてしまった。
「すぐ逃げろ。あさっての朝、おまえは殺される」…。
オオタニワタリという木の葉に鉛筆で書かれた密告が小屋に投げ込まれ、
自分の処刑を知った比嘉はジャングルに潜伏し、島からの脱出を図る。
そして、沖に船影が見えるとヤシの木に登り、着ていたワンピースを降って必死に助けを求める。
米国船「ミス・スージー」によって比嘉が救出されたのは逃亡から33日後、昭和25年6月23日だった。
これがきっかけとなり、1週間後、島に残った男達(生き残った)も米軍によって救出された。
結局、6年間に11人の人間が殺されてしまった。

◆戦後ブームになった「アナタハン事件」
帰国後の昭和27年、この事件が報じられると日本では空前の「アナタハン」ブームとなり、
比嘉さんのブロマイドが飛ぶように売れたそうです。
比嘉さんは銀座や浅草の劇場に立ち、映画にも出演し、その後は料亭の仲居などをして
昭和49年3月、脳腫瘍のため、52才で亡くなりました。
子供や孫に看取られ、穏やかな最後だったそうです。
行方がわからなくなり戦死したものとばかり思っていた最初の夫は、先に帰国し新しい家庭を築いていました。
彼はマラリアの後遺症で高熱を発しながら、訪ねた比嘉さんに、玄関先で涙ながらにわびたそうです。

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