迷宮の神


ジェラード・ソーム三部作の第3作。

 冒頭で、飛行機に乗りながら、ソームはギョーム・アポリネールのポルノ『一万一千本の鞭』を読んでいる。ソームはルソー?ヒューム?とも交流のあった18世紀の神秘主義者エズマンド・ダンリイについて本を書くように出版社から依頼される。ダンリイは赤裸々な性日記を書いており、家政婦や売春婦たちとの情事などを克明に綴っている。出版社はそのスキャンダラスな内容に関心を持ったのだ。ソームはダンリイの情報を収集する為に、ダンリイの遺稿の所有者のもとを訪ね歩いていく事になる。周辺の村民から孤立しているダンリイの末裔という老人の奇怪な振る舞いに驚かされたり、セックス教団の人々との出会って、ソームは自分の中で何かが変容しつつある事に気付き始める。そして、ソームが調べていくうちに判明したのは、ダンリイが秘密結社の不死鳥教団のリーダーであり、またルソーやヒュームとも親交があった思想家でもある、ということだった。その後のダンリイの評価はその性的な側面に集中してしまい世間から忘れ去られてしまったが、彼の思想が重要だったことに気づかされる。
 この小説で一番印象的なのは、小説の最後のシーンだ。ソームは現在も存続する不死鳥教団のトップであるザリデ・ヌイと会見することになり、そこで超能力を持った人物がソームの奇妙な存在について話をする。この教団はウィルソンのまったくの創作だが、神秘主義者フランシス・キングはこの本を読んで、ある実在の秘密結社のネタをもとにウィルソンがこの小説を書いたのではないか、と思ったらしい。
 巻末には、「覚書」があり、CW版の「ポルノグラフィーの擁護」となっている。彼はしばしばその作品が猥褻であると非難されてきたが、犯罪性を持たないポルノグラフィー作品がもっと擁護されるべきである、と主張している。
 この本はサンリオSF文庫として出版されたが、残念なことに絶版になった。古本屋でもなかなか見つからない。表紙絵は角田純男。迷宮の神ケンタウロスを思わせる牛頭が描かれていて、装丁もなかなかいい。

ここから理

冒頭で「作家の務め」について語っている。こんな風である。 「日常生活の一部となることを拒絶し、たとえそれが無慈悲や虚無主義のポーズを 要求することがあろうとも、日常生活からは断固身を遠ざけねばならないのだ。 僕たちは同化されてしまってはならない。精神とその環境の間には、 完璧なまでに単純な関係がある。環境は僕たちを水の流れのように運んでいくが、 精神とはボートを流れに逆らって動かす小型エンジンのようなものだ。 そのエンジンが動いている間、人は基本的には健康である。 エンジンが止まれば、人は流木とさして変わらない。」

また、「ダンリィ作」のスウィフト風の寓話も秀逸だ。

山間に住む奇妙な風習を持つ民族が住んでいた。彼らは腰の両脇に水を入れた 重い瓶をぶら下げる事を自らの義務としていた。だが彼らの最大の趣味は歩行であり、 次第にこの義務を疎ましく思うものが増え始める。やがて革命が起き、この風習は 廃止される。だがこの時、不都合が生じる。長いこと重りを着けていた為、彼らは 重りなしではバランスをとれなくなっていたのだ。それでも豪胆なものは重りを着けることを拒み、単に習慣の問題だと言明する。この連中は山に登ったり谷を端から端まで走破したりするが、やがて谷から墜落したり逆上して身を投げたりして、その数が減っていく。結局、重りを着けたものたちだけが生き延び、革命はただの記憶に過ぎなくなる。だが、この話は悲観的ではない。「岸壁をよじ登り、そのまま姿を消した者もいた。しかし巨大な絶壁の影の下に羊を放つ羊飼いは、頭上遥かに高いところ、つまり山の斜面が雲の中に消えるところから、大声が聞こえると証言する。」

これは「5パーセント」を寓話化したものと言える。


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