フランツ・カフカ


アウトサイダー フランツ・カフカ。作家。1883年7月3日、旧オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミアの首都プラーグ(チェコスロバキアのプラハ)に長男として生まれる。父は小間物商のヘルマン・カフカで、厳格で、圧制的な家長であり、実利主義的かつ現実主義的な人物であった。カフカはユダヤ系のドイツ人であり、多数を占めるチェコ人の中の異邦人的存在であった。ギムナージウム終了後、プラハ大学にて法律学を学び、国家試験に合格、23歳で法律学のドクターの称号を得る。大学時代に、マックス・ブロートと知り合う。労働災害保険協会に就職、生涯サラリーマンとして勤務しながら、趣味で小説を書き記す。(父親は彼の創作活動を良く思っていなかった。)1912年長編『失踪者(アメリカ)』、短編『判決』・『変身』を執筆。同年、フェリーツェ・バウアー(F・B)との5年間に渡る恋愛が始まる。この5年間に、カフカはF・Bあてに500通以上の手紙を書き、2回の婚約と破棄を繰りかえしている。1913年、『観察』、『判決』、『火夫』(長編『失踪者(アメリカ)』第一章)を刊行。1914年、長編『審判』、短編『流刑地にて』を執筆。1915年、『火夫』によってフォンターネ文学賞を受賞。1917年、病院で肺結核と診断され、闘病生活開始。別の女性と婚約して、またも破棄。1920年、カフカの初期の散文のチェコ語への翻訳者ミレナ・イェシェンスカ・ポラク夫人との文通が始まる。これが後に『ミレナへの手紙』となる。この時期、カフカは長編『城』を執筆。なお、ミレナ夫人は、ユダヤ人ということで、ゲシュタポに捕らえられ、第二次世界大戦中にナチの強制収容所で獄死している。1923年、妹とその子供とともにバルト海沿岸ミュリッツに滞在している間に、ユダヤ女性ドーラ・ディマントと知り合い、9月末、ベルリン郊外シュテーグリッツで同棲生活を始める。1924年、喉頭結核が悪化し、6月3日、ウィーン郊外のキールリング・サナトリウムで、ドーラにみとられながら死去。享年41歳。
長編『失踪者(アメリカ)』・『審判』・『城』は、刊行することなく、燃やすようにとのカフカの遺言があったが、親友マックス・ブロートが刊行。マックス・ブロートは、この三つの長編を「孤独の三部作」と名づける。カフカの文学は、第二次世界大戦後のフランスの実存主義者たちによって先駆的作家とされ、アルベール・カミュも『シーシュポスの神話』に収録された哲学的エッセイの中で、フランツ・カフカの文学空間を不条理の文学として論評した。カフカの文学は、サミュエル・ベケットやモーリス・ブランショ、ジョルジュ・バタイユ、ヌーヴォー・ロマンのロブ=グリエらに影響を与え、日本でも安部公房や倉橋由美子らに影響を与えた。カフカの文学は、実存主義的解釈以外に、精神分析的な解釈などを生み出した。また、ポスト構造主義の立場からのカフカ論もあり、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『カフカ〜マイナー文学のために』で、意味を生産する文学機械としてカフカを捉えようと試み、ジャック・デリダも『カフカ論:掟の門前をめぐって』を書いている。
(2005.1.6 T.Harada)