ウィルソンの性の理解


ウィルソンは経歴の初期から性に対して深い関心を示してきた。 そのアプローチはもっぱら知的なものだが、「頑固な事実を噛み砕き」、 経験から絞りつくすようにして知識を抽出する手腕がここでも威力を発揮している。

ウィルソンの性の理解には三つの側面がある。

1.ロマンティックなものとして 2.衝動として 3.幻想として

1.これはロマン派が讃えてきた性でもある。女との交流から得られる単純な喜びが、 生活に意味と彩りを与える。人格の上昇をもたらす場合もある。 女を守ろうとする態度全般に性のこの側面が示されているだろう。 「実存主義を超えて」や「至高体験」に引用されたロマン・ガリの小説「天国の根」は、極めて鮮烈な象徴である。 この小説は収容所の男たちの運命を描いたものだが、彼らはこの生活を耐えぬくために 一人の少女を空想し、少女を大切に扱うことで彼ら自身のモラルを保つのである。

この側面はウィルソンの「性理論」では触れられていないため、自伝や小説から考察することになる。

例えばシルヴィアという少女を愛人にしたウィルソンは、彼女のあまりの無邪気さに胸を痛め、 「お前は与えられたものを何でも受け取り、世界はみんなお友達だと夢想するのだろう」というイェイツの詩を思い出す。 また二度目の妻ジョイは彼にとって幸運のマスコットであり、その微笑みは湖面にさす陽光のように表情を一変させる。 彼女と始めて交わった時、ウィルソンは生涯を通じて最大の至高体験を得たそうだ。

彼の小説の主人公は(特に初期のものは)完璧な紳士として振舞おうとする。ソームにしろデイモンにしろバトラーにしろ、 女を辛い目に逢わせることなど出来そうもない。女に対する彼らの視線はまちまちだが、態度は常に丁寧でやさしく、 しばしば冗談も飛び出す。この側面を最も強烈に打ち出しているのは、「迷宮の神」におけるエズマンド・ダンリィのエピソード だろう。彼は宿の娘に銀貨を渡し、夜わたしの部屋に忍んでくればさらに金をやろう、と言う。するとその場に居た友人が、 あの娘は結婚しているから部屋には来ないだろう、君は金を無駄にしたのだ、と告げる。 それに対しエズマンドは反論する。「美しい女が貞淑な場合、金をやる事は決して無駄にはならぬ、つまり、 古えの良き時代なら、供物を喜ぶあのアフロディーテ(美の女神)に捧げた願掛けとみなされるからだ。」

「スパイダーワールド」ではマルローやドナとの交流、セリスやインゲルドの造形にこの知見が活かされ、 作品に弾みと奥行きを与えている。

2.「性の衝動」「性のアウトサイダー」「形而上学者の性の日記」「夢見る力」といった著作でウィルソンが 組織的な分析を試みるのは、主に衝動としての性である。象徴として彼は「中国の不思議な役人」というオペラをしばしば持ち出す。 この主人公は売春婦と交わるまでは毒を盛られても剣で突かれても死なないのだ。^ 確かに、性が他では見られないような目的意識を男にもたらすと言うのは本当である。いつでも男女が気楽に交流し、スムーズに性交へと移行するなら、こんな焼け付くような苦しみを伴いはしないだろう。だが現実はそうではない。禿げとか無愛想とか気が弱いとかいった、ごく些細なことが原因で性体験は奪われる。そして呼吸や食事や創造行為を奪われるのと同じく、性の貧困は異常な欲求不満の原因となる。性産業を支え、性犯罪の動機ともなっているのはこの事態である。

性の異常についてもウィルソンは分析を重ねている。そのアイディアの源泉は、グルジェフの「性のセンターと他の(知性や感情や運動といった)センターの間でエネルギーの奪い合いがあり、性センターが本来のエネルギーで働くことは稀である」という指摘だろう。

「性衝動」をほとんど枯れる事のない原爆並みの力として捉え、この観点から先駆者としてアルツィバーシェフを高く評価している。

3.この側面は最も分かりにくい。だがすでに「暗黒の祭り」において、自分の頭には性がこびりついており、焦がれるようなこの欲求から解放されれば如何に助かるだろうかとソームに自己分析させている。そして「わが青春、わが読書」のデビット・リンゼイの項では、その友人ヴィジアクの小説「メドゥーサ」に触れ、こう述べる。「セックスとは、種を永続させるよう動物をそそのかし、ある種神秘的な目的があるように思い込ませる、よく見れば手の込んだペテンに過ぎぬ幻想でしかない。」三十代の頃はまだここまで考えは固まっていなかったそうである。かく言うウィルソンだが、インタヴューでは、今も毎日奥さんとセックスする事を明かしている。(理)