アンリ・バルビュス


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 フランスの作家アンリ・バルビュス(1874-1935)の『地獄』からの引用は、『アウトサイダー』の冒頭を飾る印象深い描写だ。無名の主人公が舗道に出て通り掛かりの女性たちを欲望の眼差しで見つめている。そんな彼がある日、自分のアパートの壁の上の方から光が差しているのに気づく。近づいてみると、それは小さな穴で隣室の様子を覗き込むことができるのだった。彼はその隣室にやってくるさまざまな人々の苦悩、欲望、腐敗を観察しながら、人知れぬ興奮を感じ、次第に熱狂していく。

 隣室を覗き込むことに耽溺するという息の詰まるような日々の描写は、『アウトサイダー』という作品全体を包み込むような強い印象を与えている。しかし原作の『地獄』を読んでみると、私は『アウトサイダー』での引用された場合とは少し異なった感じを持った。主人公は目的を失い他人に直接的な関心を抱くことができないで、退屈している。彼は隠された趣味と日常生活の退屈の間で、のらりくらりと過ごしていく。そのゆったりしたペースが読み心地よい作品だ。『地獄』をウェルズやサルトルの文章と組み合わせることで、CWは「アウトサイダー」の問題をクローズアップさせたが、それだけに限定しないで読んで欲しい小説である。

 バルビュスは『地獄』のような人間の背徳的部分を取り上げた作品を執筆する一方で、作家活動だけではなく、フランス共産党に入党して、ロマン・ロランと共に反戦・平和を求めたクラルテ運動を指導したことで有名である。サルトル?とは一世代上であるが、現実の虚無感を抱えながら政治活動に取り組んだという点で、似通った経歴を辿ったといえるだろう。

 忘れてはならないのは、バルビュスが日本にも強い影響を与えていることである。小牧近江がバルビュスの活動に影響を受け、フランスから帰国後に雑誌「種撒く人」を創刊して、日本のプロレタリア文学を生み出すことになった。また、日本へのバルビュスの紹介者は、武林無想庵(1880-1962)というかなり風変わりな人物。彼はCWが『夢見る力』の6章で扱ったアルツイバーシェフ?の『サーニン』の翻訳者でもある。無想庵はかなりの博識をほこり、当時の文壇でも一目置かれる存在だった。