中川市


沿線地域

市内の駅

武電中川笄町

歴史

  • 初代984:戦国時代に焼け野原になったが、その後京都風に。

    中川は戦国時代に焼け野原になって、町を建て直すときに京都風にひきなおしたもともとの京中川がそうだよね。
    東西に貫くのは、北から
    北大路・申嶺口・上建売・今入川・中建売・一条・丸木橋・二条・御沼・三条・烏賊薬師・四条・神光寺・松原・五条・六条・正面・七条・糖小路・八条・九条・十条
    南北に貫くのは、東から
    東大路・砂原町・鳥丸・堀ノ川・大ノ宮・千木・西大路。
    ほかにも有名な通りはあるけれど。
    西大路よりもっと西はしばらくいくと山崎川があって、そこから、戦乱の世に西へシフトしてできた商いの町の中川西町(西中川とは別)から西中川にかけてはあって、そこは大阪風。
    ○○筋とかで丁目がついているような感じ。

  • 初代985-986:「京中川」とは

    京中川は現在の武電線路から笄町の東側にかけての範囲。

    江戸時代は「中川千軒」「江戸を見たくば中川へ」「中川は京の賑わい」と囃され
    この界隈では嬬久保に比肩する都市だったんだとさ。

    • 初代994による補足

      上方見たくば中川へと記憶している。
      嬬久保か江戸中期に洪水にあうまでの猿渡宿が江戸をみたくば、だったと思う。
      ちなみに、西町の新町名はほとんど定着せず、地図にものらずみんな内外問わず旧町名でよぶよね。
      まあ通りの名前さえわかれば呼べるわけだしね。
      また昔の名前に戻そうという動きが市長・市議会のほぼ全会一致で通りそうだね。
      新町名を導入した前市長が選挙で11票でおちるといういうことが契機であるが。

商業・産業

  • 八百長(大家の内山田糸屋とテナント料でもめる)・半忠など大型店があぼーん(初代378)
  • 地鶏でしられる(二代目11)
  • 精密機械工業が盛ん(二代目31):「川市の財政力がまだマシなのは豊富な湧き水ときれいな空気、そして勤勉な労働力を生かした精密機械工業が立地するため。メルモ、若島津製作所、立岩電気、セイコ・エジソン(旧聖子舎)など。以前は京中川の基幹産業と言えば陣内織。 」
  • チャーハンで町おこし(二代目62-66

人口流出

  • 開拓農地あたりへ転居する人が多いようだ(378)
    • 初代993:それでもバブルの頃は…

      バブルの頃なら団塊ジュニア世代の頃で中川へ通う学生も多かった。急行が4両じゃ積み残し
      出ちゃって6両になった位だった。中川テクノバレー構想とか県立大農学部誘致とか
      景気のいい話もあったし。武電は力仁買収の後遺症と海老ヶ丘の入居不振が痛かったね。

  • 初代995:まだ学校は結構ある。

    県立大誘致というのは、隣の県の県立大学の再編にさいして、教授陣が反乱を起こしてほかに移ろうとしたときに出た話だね。
    府立農業技術大をつくる、とかいう話だっけ。
    その話はつぶれたけど、中川はまだまだ学校は多くて、中高大に通うために中川にくる人は多いよ。
    実際朝の6時台の中川行電車は学生生徒ばかりだし。
    また、中川は祭りが多いし、神社仏閣も多くて、縁日はものすごい賑わい。

  • 人口密度が低い土地柄か?二代目36

    中川で問題になるのは、傾向としては人口が薄く広く広がっているために、
    都市インフラの維持整備に(人口規模に比べて)やたら金がかかること。
    交通問題もそれに含まれるね。

行事

  • 夜祭り:初代988

    先日は夜祭りがあったよ。冷え込む中勇壮で絢爛豪華な山車がコンチキチンの音色に乗って
    旧市内を練り歩く。長者町も山車があって俺は笛でお囃子吹いた。もちろん武電も大増発。
    6月にも中川祇園祭りがある。ああ中川っ子で良かったと思うよ。

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