2011年10月14日(金),昨年のガザ行き船団急襲事件に関わった174人のイスラエル人の逮 捕状を,トルコの検察官が請求するもよう.(Y)
2011年10月20日(木),シャリート兵士との身柄交換で釈放された女性囚人が「私のようにな るように」とガザの小学生たちに自爆テロを推奨.女性は6年前に自 爆テロ未遂で逮捕され,12年間の懲役刑を受けていた.(Y,H,P)
2010年2月24日(水),ハンガリーの国会はホロコースト否定の言動を非合法化し,違反者に は最高3年の懲役を課す法案を通過させた.(Y,P)
2010年3月1日(月),スペイン駐在イスラエル大使が,同国の小学生から反ユダヤ的な手紙 を多数受け取ったことから,イスラエル政府は同国政府に公式に抗議 した.学校で反ユダヤ主義を教え込む人物がいると見られる.(Y,H)
2010年3月1日月曜に「イスラエルのアパルトヘイト週間」が世界40都市以上の大 学で始まった.5年前にカナダのアラブ人学生たちが始めた,「アパ ルトヘイト」へのボイコット,反投資,制裁を促進する運動.(P,H)
【回答】 1942年の陸軍航空本部が把握していた,全国の工作機械は,14,677台. この工作機械の不足のため,1942年度の航空機実生産見込みは.6,365機に過ぎません. 工場能力を向上したり,工場施設の拡充転用,民有施設の航空機生産転換,航空支廠,部隊,学校の転用と言う対策を講じれば,これが9,000機になる可能性はありましたが,それを実現するには,工作機械が先ほどの数字に加え,13,000台必要となります.
しかし,優先的に資材割当が行われたにも関わらず,その実績は捗捗しくないものでした. 一方,9,000機生産と打ち上げてみたものの,ジュラルミンの割当は11.8万トンと,これは6,800機分の量(ぉぃ. じゃぁ,これを増やすなら…陸軍の兵器が減ります.
で,東條上等兵は宣った.
「飛行機の生産だけでは戦争は出来ない. 少ない飛行機で勝つ工夫,転換が必要だ. 生産機種は,遠距離爆撃機と戦闘機だけでよい. 輸送機があるのは贅沢だ. もっと貧乏人らしく考えたらどうだ」
1942年11月の陸軍の保有機は, 戦闘機64個中隊(791機), 偵察機30個中隊(273機), 軽爆撃機40個中隊(360機), 重爆撃機27個中隊(216機) の合計1,640機に過ぎず,戦闘機の半分は九七式以前の旧式機でした. 結局,この年の生産数は,陸軍が5,330機,海軍機4,170機,発動機が16,800基.
1943年の航空機生産目標は,陸海軍とも8,000機. 翌年は10,000機に跳ね上がります. となると,ジュラルミンの供給は,4.4万トン必要になりますが,1943年の陸軍割当は,4.7万トンで決着しました. 陸軍はこの乏しい資源をやりくりするため,戦闘機生産が最優先,他は現有機の損耗補充程度とし,練習機は既存機種を改造することで.生産量を減らしました.
しかし,通商破壊戦の影響で,その数値は7月に見直しを余儀なくされ,8月には陸軍の他の装備を削ってでも,航空機生産を最優先とする命令が,上等兵から出ます. これにより,陸軍の生産予定は,作戦機7,960機,練習機1,320機として,増加します. ところが資材不足,生産体制の準備不足,陸海軍の確執,競合によって,生産は遅々として進みませんでした.
このため,話は前後しますが,更に民生産業を動員する方法として,1942年より産業設備営団や重要物資管理営団が出来,企業整備令による,民生産業の集約化が進められることになりました.
また,1943年3月に行政査察使,内閣顧問が設置され,各地に行政査察が入り,10月に最終報告が為されます. この結果,生産管理,資材集約,機械設備の統合,指導などを行えば,航空機生産は50,000機が可能と言う結論が出たので,上等兵殿は,1943年11月,直ちに企画院と商工省を廃止して軍需省を新設し,あらゆる生産部門に関する行政がこちらに統合されることになりました.
この機構の中には,生産状況を監理して指導監督を行う為,軍需監理官が重要工場や事業所に配置され,地方機構として全国9カ所に設置されています. そして,軍需産業の生産を管理する為に,1943年12月には軍需会社法を制定,施行し,国に指定された軍需産業は,全てに於いて完全に国の管理下に入りました.
…では年が明けてからどうなったか,は,また明日以降.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月21日21:57 青文字:加筆改修部分
新聞用紙が不足したため,1943年11月1日からは新聞の新規購読が出来なくなり,金属資源の不足のため,銅像や梵鐘などは非常回収の対象となりました.
さて,そんな頃から策定を開始した1944年度の軍需動員計画では,航空機の生産については,陸海軍から軍需省に実現の責任が移り,陸軍は滑空機2,355機を含め31,077機,海軍は25,740機,合計56,817機と,昨年要求の3倍近くの要求が出されています.
ところが,ジュラルミンはと言うと,この計画で行くと,18,000t不足(ぉ. そこで,陸海軍の要求量調整ですったもんだがある訳で.
陸軍の主張は,1944年度アルミニウム生産予定量215,000tに在庫量を加えた総供給量を折半すると言うもの. ちなみに,陸軍機1機当りのアルミニウム使用量は3.81t,この折半量だと28,000機分,海軍機1機当りのアルミニウム使用量は4.57t,陸軍の主張に沿うなら24,000機分となります. 合計52,000機となりますが,元々の要求量に比し約5,000機分不足. まぁ,本当に必要な要求量は52,000機のうち,50,000機. 残りは努力目標としていました.
一方,海軍の主張は,戦局が島嶼戦主体となっているので,航空機の機数を折半し,海軍が26,000機,陸軍24,000機の割当として,陸軍機のうち,1,500機は海上護衛の為に割けと言うもの.
こうして,陸海軍同士の意地の張り合い調整が2ヶ月以上続き,1944年2月にやっと東条上等兵殿の妥協の結果,陸軍のアルミニウム折半案を元にするが,アルミニウムについては,海軍側に3,500t分譲渡すると言うことで面子を立てて,妥結しました.
で,結局,1944年度の航空機生産予定量は,陸軍機27,120機,海軍機25,380機の合計52,500機で妥結しました. ちなみに,1943年度の生産実績が陸軍機8,560機,海軍機8,950機なので,どれだけ高い目標か(苦笑.
ところが,この原料輸送については,物動計画がきちんと立てられていたわけですが,陸海軍が中部太平洋の島嶼に対する緊急輸送を繰り返したお陰で,物動計画が計画倒れに終わり,アルミニウム生産は185,000tに留まり,航空機の生産量は10,000機減となります.
このうち,陸軍の生産量内訳はこんな感じ.
一式戦:3,650機(但し,天山200機の為に削減有り), 二式戦:700機, 二式複戦:800機, 三式戦:4,000機, 四式戦:5,850機, キ-102:1,000機, キ-106:200機(木製) 九九式双軽:400機, 四式重爆:1,000, キ-74:200機. 百式司偵:2,000機(但し,水偵150機と交換する可能性有り), 九九式軍偵:500機, 三式指揮連絡機:200機. 九七式重爆改造輸送機:130機, 百式重爆改造輸送機:120機, 百式輸送機:1,000機, 四式重爆改造輸送機:1,000機. 一式双高練:750機(輸送機型含む), キ-86:3,200機, キ-107:500機(木製), ク-1:100機, ク-7:400機, ク-8:1,800機.
アルミニウム逼迫の折から,木製機についても若干触れられ,グライダーなどと共に,木製軍用機の研究も行われる様になります.
こうしてまず手を付けられたのが,大東亜決戦機である四式戦の木製化,キ-106です. 立川飛行機に発注されたそれを製作するに当たっては,用兵側である航空本部から猛烈な反対が出ました. 特に剛性を得る為の機体構造の強化とそれに伴う重量増,しかも防弾性能皆無と言うんでは,実戦で役に立たないと言う訳です.
とりあえず,それでも試作研究は進み,ソ連から満州に亡命したLaGG-3や,Burma戦線で撃墜されたMosquitoの構造材を入手するなどして参考情報をかき集め,1944年早々には主翼の桁が出来ました. しかし,案の定,強度は半分. 試作機は,1944年7月下旬に完成しますが,クリーン状態で四式戦の390kg増しの重量だったり.
結局,量産機は重量軽減のために,翼内機銃を持たなかった様ですが….
さて,キ-116は1944年10月に初飛行を行います. 同じエンジンにも関わらず,最高速度は四式戦の40km/h減,上昇性能は四式戦より1分遅いものの,安定性・操縦性は同じで性能は低下という審査結果でした. ただ,非戦略物資を多用する機体である,として複操縦装置を付けた高等練習機もしくは,四式戦転換用練習機としての生産が計画されていました.
寧ろ,四式戦の代用原料機はキ-113が本命で,これは主翼桁,小骨,エンジンカバー,補助翼,フラップを鋼製として,胴体,水平安定板などを木製化した木金混成機でした. 確かに重量は四式戦より増しますが,荷重のかかる部分を鋼製とすることで,十分な強度を持たせ,かつアルミニウム使用量をより少なくすることが出来た,と言う訳.
しかし,そんな高性能の機体は,1945年には意味がなかったんですがね
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月23日21:18
【回答】 1944年後半. 既にソ連はドイツを圧迫してポーランドを占領し,左翼は長駆してユーゴスラヴィアにまで進出します. 同じ頃,日本も米国に押される一方で,サイパン,グアムを放棄して退勢覆うべくもありませんでした. ドイツではヒトラー暗殺未遂事件があり,日本では東条内閣の総辞職が避けられない状況になってきました. 従って,日本が特使を派遣するとの申入れをした際にも,既にソ連に内情を見透かされており,最早ソ連にとって日本は重視すべき国ではなくなりつつあります.
11月6日,ソ連革命記念日のスターリンの演説は,それを如実に示すものとなりました. この演説の要点は以下の通りです.
―――――― 連合国の勝利は,何ら疑いの無い所である. しかし対独戦の勝利は,尚将来の強固な平和及び安全保障の確保を意味しない. 我々の任務は,永遠とまで行かなくとも,少なくとも長期間に於て新たな侵略行為と戦争発生とを不可能ならしめるにある. ドイツの敗北後,ドイツが経済的政治的に無力化されることは当然であるが,これを以てドイツが再び侵略をしないと考えることは幼稚である. ドイツの首魁達が既に,新しい戦争を準備していることは周知の事実であるが,歴史は20年乃至30年の短期間を以てドイツが敗戦からその力を回復する為に充分とすることを物語っている. 侵略阻止の為,或いは,尚且つ侵略が発生する場合大戦争に発展しない為,その初期に於てこれを鎮圧するには,どの様な手段を執るべきであろうか. 侵略国が,戦争に興味を持たない平和愛好国よりも良く準備する事は,歴史の示す所である. 今次戦争開始前,侵略国は「侵略軍」を準備したのに対し,平和愛好国は「動員を擁護する為の軍隊」さえも持っていなかった. 侵略国たる日本が,平和政策を固執する米英より良く戦争準備をしていた時,真珠湾の事件,フィリピンその他の太平洋諸島の喪失,香港・シンガポールの喪失の如き不愉快な事実の発生したことは偶然とは考えられない. ドイツが侵略国として,平和愛好国であるソ連より,よりよく準備していた時,対独戦大1年に於けるウクライナ,白ロシア,沿バルトの喪失の如き不愉快な事実の発生も,又偶然では無い. これを日本人或いはドイツ人固有の性質として,または米英ソ連人に対する彼らの優越性,或いは先見の明として説明するのは幼稚である. 問題は,人間としての固有の性質では無く,新しい戦争に興味を持つ侵略国が,平和愛好国に比較してより良く準備し,その為に力を結集していたことである. それは歴史上の法則であって,これを考慮に入れないことは危険であろう. 従って,もし侵略阻止の手段を今から講じなければ,将来平和愛好国が再び突如として侵略に遭遇することは否定し得ない. ドイツ側寄りの新しい侵略を防止する為,そして尚且つ侵略の発生する場合には,これを初期に於て鎮圧し,大戦争に発展させない為には,如何なる手段があろうか. この為には侵略諸国の完全武装解除の他,ただ一つの手段がある. 即ち平和維持及び安全保障の特別機構の設置,並びにその機構の指導機関の設置に加えて,最小限度必要量の武力を持たせることである (後略) ―――――― これは全世界に向けて放送され,BBCも特に演説のこの部分を忠実に伝えました. これは,1944年8月乃至10月に行われた,ダンバートン・オークスの,世界安全保障機構に関する会議に対応するものだったからです.
11月17日,佐藤大使がモロトフと会合を持ちます. 佐藤大使は,ソ連領内に予想される米国の基地問題についての質問を発しただけの会合でしたが,モロトフは自らこのスターリン演説に言及してきました. その演説では,日本について何ら言及していないものであり,ソ連の政策はそれによっても明らかであると述べ,更にその演説には過去及び将来について述べているが,現下のモメントについては何ら言及していないと言います.
これに対し,佐藤大使は次の様に述べます.
―――――― 11月6日のスターリン元帥の演説中には,日本を目して侵略国としている. 従来の数あるソ連側発表には,ソ連側は慎重な注意を払い,総て欧州問題に限定されていた. テヘラン会議の発表の如きはまさにそうであった. ところが今回は前例の範囲を超えて,日本に関して明確に言及する所があった為,各方面の注目を引いた. 殊に去る9月16日モロトフ氏と面談の際,日ソ関係は正常状態にあり,且つ良い方向に向かっていると言われたが,その後1ヶ月半で今回の演説となり,自分も些か奇異に感じた次第である. 尤も演説中のこの部分は,戦後の安全保障体制に関して為されたもので,事実を事実として挙げようとした考えの範囲を出るものでは無いと考える. 即ち,演説の目的とする所は,日本を非難し若しくは日本を侵略国として取扱い,又は侵略国呼ばわりしようとするものでは無いと考えられるが,この見解に誤りが無ければ日本も満足するであろう. ―――――― これに対しモロトフは,大使の解釈に対して全く同感であると述べ,スターリン元帥の批判は理論的見地から為されたもので,過去の歴史に関するものに過ぎない. 即ち,過去に於ける諸種の事実を事実として認めたに過ぎない. それは3年前の事実で,その後多くの出来事があり,戦争は急速に進展しており,それについて戦争の過去の段階に関し,理論的見地から引証したものとみるべきで有ると答えています.
佐藤大使は,この言葉の裏をどうやら見抜けなかった様で,モロトフ氏の説明は,この問題が実際上今後何ら政治的影響を及ぼすものでは無いとする見解に,保障を与えられたものと諒解出来れば幸いであると述べ,モロトフも,その通りであって,演説中に書いてあることは,書いてある以上に解釈されるべきものでは無いと答えています.
こうしてソ連は微妙な軌道修正を掛けていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/16 22:45 青文字:加筆改修部分
さて,1945年1月1日,東部戦線の独ソの前線は,北はリトアニアのメーメルから南はユーゴスラヴィアのサライェヴォに及び,ワルシャワもブダ=ペシュトも,その線内または線上にある状態になっています. 太平洋戦線では,米軍は既にルソン島に上陸を開始し,日本海軍の海上兵力は蕩尽され尽されていました. この様な状況で,2月3日,ルーズヴェルト大統領は飛行機に乗り,5機の戦闘機に護衛されてクリミアのサキ飛行場に着陸しました. 相前後して,チャーチルも飛行機で到着し,此処クリミア半島にて4日から11日に亘って連合国3首脳は会談を持ちます. 後にヤルタ会談と言われる首脳会議により,第2次世界大戦の帰結とその後の世界の枠組みが決まった訳です.
この会議では,ソ連の対日参戦が明確に取り決められました…勿論,これは秘密協定の類で,日本には何ら知らされることはありませんでしたが.
会議が終わって10日余り経った2月22日,佐藤大使はモロトフを訪問して,ヤルタ会談が極東問題に触れたかどうかを質しました. これに対しモロトフは,ヤルタの会談はコミュニケに発表の通りであり,極東に於ける日ソは中立関係にあるとの以前からの立場を崩しません.
そこで佐藤大使は,ソ連政府が外交独自性を堅持しているものとすれば,ソ連政府の態度に於て,中立条約も変更無いものと思われるが,その中立条約には4月25日という条約の廃棄についての意思を,通告しうる期日があるので,日本政府としては同条約の重要性に鑑み,その存続を希望するものであり,此の点に関するソ連政府の態度を承知したい旨申し入れます. しかし,モロトフはヤルタ密約で対日参戦を約束したばかりであり,此の点に関しては心中困惑したことであろうが,日本政府の態度を多とするも,中立条約の存続については多忙の為に未だ研究していないので,追って話をすると冷静に回答しています. 佐藤大使としては,中立条約に触れることにより,ソ連側に対し無言の注意喚起をしたつもりなのですが,モロトフは逃げ口上に徹した形で,結局会談はそれ以上深く突っ込まれませんでした.
その後1ヶ月経っても,モロトフからその延長についての返事は有りませんでした. そこで,3月22日,佐藤大使はモロトフに会見を申入れ,その意向と質そうとします. しかし,モロトフは最近多客の為面会不可能であると返事を返してきただけで,ロゾフスキー代理と会談して貰いたいとの殊でした.
3月24日,佐藤大使はロゾフスキー代理と会談して,先ず中立条約の存続問題について至急モロトフに面会したい旨を述べます. これに対しロゾフスキーは,目下の所モロトフは多忙の為,ここ数日中には会見が覚束無いと思われるが,モロトフが大使に会見すべき事は勿論なので,本職からも伝達しておくと答えます. 佐藤大使は,重ねて中立条約に関する日本政府の以降は明瞭であり,日本政府はこの条約の維持に異存ないばかりで無く,寧ろこれを希望し,又ソ連政府も同様にその維持を希望されることを期待するものなので,速やかにソ連側の決定を承知したい旨,モロトフに伝達する様依頼しました.
…貧すれば鈍すると言うべきか,もう少し日本が諜報活動に重きを置き,自国の状況を冷静に判断していたら,その後,どういった展開が為されるかがある程度予想が付くと思ったりしたのですが….
4月5日,モロトフは漸く佐藤大使と会見します. その席上,モロトフは,次の様に覚書を読み上げました.
日ソ中立条約は,独ソ戦争及び日本の対米英戦争勃発前である1941年4月13日に調印されたものであるが,爾来自体は根本的に変化し,日本はその同盟国であるドイツの対ソ戦争遂行を援助し,且つソ連の同盟国である米英と交戦中である. 掛る事態に於ては,日ソ中立条約はその異議を喪失し,その存続は不可能となった. よって同条約第3条の規定に基づき,ソ連政府は此処に,日ソ中立条約は明年4月期限満了後,延長しない意向である旨を宣言する.
この通告は,ソ連が戦争中にとり続けた態度をかなぐり捨てたものであり,日本がドイツの対ソ戦遂行を援助していると難ずる点で,重大な警告でもありました. しかし後段では,条約の規定に基づき明年4月期限満了後,延長しないとしているので,その点を明瞭にする必要がありました.
即ち佐藤大使は先ず,本年4月25日から明年条約の期限満了までの間に対するソ連の態度を質問しました. それに対しモロトフは,ソ連の態度は今後は事実上中立条約以前の態度に戻ると答えます. そこで,佐藤大使は,日本政府の見解では,締約国は期限満了1年前に条約廃棄通告の権利を有するも,その廃棄通告に関わらず,同条約は尚1年間効力を有するものと見做されるが,それはどうかと尋ねました. これに対してモロトフは,5年の有効期間満了時に於て元の状態に戻るもので,それは1年後のことであることは明らかである旨を回答しました.
此処で,佐藤大使は,ソ連政府の声明を如何とする旨述べると共に,日本政府としてはソ連政府が条約破棄通告後の期間に対しても,日ソ関係をこれまでの如く維持し且つ更新していく様希望するものであり,またソ連政府の条約廃棄通告後に於ても,極東の平和が従来の如く変化無い事を期待するものであると述べました.
これに関連してモロトフは,ソ連政府の声明は完全に条約の規定に則している,と答え,それに加えて中立条約締結後に至って独ソ戦争が勃発し,日本はソ連の同盟国である米英と開戦するに至ったのであるから,条約破棄の措置に出たソ連政府の動機はその声明中に明らかであると付け加えました. 更にソ連政府は中立条約の権利を行使したに過ぎず,しかし条約の期間は尚終了したものでは無いので,ソ連政府の態度はそれによって律せられるであろうと述べ,そして,それ以後の将来については,現下の国際関係が甚だ複雑であり,それは極東及び西欧に関しても同様で,将来のことについてもお話得べく,日本政府の意見をも拝承することとすると言う主旨の回答を述べています.
これを受けて佐藤大使も,ソ連政府の声明及びモロトフ氏の追加的説明は,これを本国政府に伝達すべく,将来のことについては東西とも状勢複雑であることはお話の通りであるが,平和維持の重要なことはソ連に於ても同感であろうし,東京からの回訓を得た上で再び参上したいと述べて会見を終了しました.
因みに,ソ連側資料に於ては,この出来事を以下の様に書いています.
ソ連の通告は,侵略戦争を中止せねばならないとするもので,日本の支配者に対する重大な警告であった. この意味はソ連外務人民委員からも,在東京ソ連大使からも,日本の外交官等との会談で充分明瞭に強調されたことであった. 例えば,1945年4月27日,ソ連外務人民委員は佐藤との会談で,日本は極東で何時まで戦争するつもりかとの質問を幾度か発した. 佐藤は回答を逸らそうとするので,外務人民委員は,≪極東の戦争は非常に長引いている.ソ連は交戦国では無い.ソ連の主要な任務は恒久平和を確立することである≫と述べた. 日本の支配者は,ソ連の警告を依然として聞き流していた. 彼らは策略と反ファッショ連合諸国間の矛盾を利用することによって,侵略の結果獲得した領土の一部を,我が主柱に残しうる様な講話の成立を期待したのであった.
ソ連の資料では対日警告が為されたとしていますが,今まで見た様に,モロトフの説明でも,4月7日に鈴木内閣が成立した際の外交官接見の際に,マリクソ連大使に対して東郷外相がソ連の中立義務についての注意を喚起したりもしていますが,その時のソ連の態度は曖昧なものに終始し,とても警告をしたとは言えなかったりします.
ところで,ソ連が対日参戦を本格的に画策している時,日本は未だソ連の袖に縋ろうという人々が蠢いていたのでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/17 22:50
何か足掻けば足掻くほど,泥沼に入っていく様な感じです. せめて下が主体的に動いてくれれば,こちらも少しは楽出来るのですが,業者に総てお任せという態度を取っているので,その孔をこちらが埋めねばなりません. 結局,全然,こちらの想定通りに進まず,ストレスばかりが溜まっていきます. しかも,今日は靴底がペロンと剥がれたのが見つかったし….
ああ,避暑にでも行きたい気分です.
さて,逃避したいと思ったのは,独り私だけではありません. 1945年の日本も,あわよくば泥沼から抜け出したいと足掻いていました. しかし,様々な人間が好き勝手に動いたので,結局,総ての工作が上手くいきませんでした. しかも,一番頼るべきでは無い相手に頼ったのが,総ての間違いの元でした.
1945年4月,既に欧州での戦闘は終局を迎えつつあり,ソ連は4月末にベルリンに突入しました. 4月29日,通り1つ1つを挟んだ戦闘の末,ベルリンの国会議事堂には赤旗が翻り,ヒトラーは自殺します. そして,5月8日には政府も力尽きて無条件降伏し,ドイツ第三帝国は崩壊しました.
こうなると,全世界を相手に戦っているのは,独り日本だけとなります. 4月には米軍が沖縄に上陸し,本土に刻一刻と迫り来る状況になりました.
こうした中,ソ連はドイツ降伏前後から続々と部隊を後方に返し始め,相当の兵力と武器とを,シベリア鉄道を通じて東へ東へと輸送する様になり,それはシベリア鉄農の旅行者の話でも明らかな事実であり,軍事専門家の眼からすれば,これは正に憂慮すべき状況でした.
この国難にありながら,1945年4月5日,小磯内閣は在任9ヶ月余にして総辞職し,7日に鈴木内閣が誕生します. 今や戦争は現実を直視する限り,日本に利のないことは誰の目にも明らかでした. そこで,各種の「終戦工作」なるものが行われることになります.
ソ連側資料に依れば,既に2月15日の時点で,哈爾浜駐在の宮川船夫総領事が,古い知人と言う事でマリク大使を訪問して会談したが,その際宮川は,権威あり説得力のある国際活動家が調停者として,総ての国に戦争の停止を要求すべき時が到来したと為し,そうした権威ある活動家としてはソ連の首脳以外に無く,もしソ連の首脳が提案するならばヒトラーも戦争を停止すべく,ルーズベルトもチャーチルもその提案に反対しないであろうとの見解を述べたと記録されています. また,3月4日には,日魯漁業のロシア領水産組合長であった田中丸祐厚がマリク大使を訪問の上,ソ連だけが効果的に戦争の停止と平和を呼びかけ得る国であると繰返し述べ,3月21日に再度訪問した時にも,前述の案について重光外相に何らかの提案をしなかったかとマリクに執拗に質問しています.
因みに,宮川総領事は日本に於てソ連の事情に精通した第一人者であり,田中丸祐厚は広田元首相と関係の深い人であったが故に,ソ連側はこの両人のアプローチを以て,対ソ瀬踏み工作と見做したようです.
欧州では,重光外相と東郷外相の両外相の執務時期,スウェーデンのバッゲ公使が自発的に和平斡旋の労を執ることを各々の外相に申入れ,それを是としたと言う記録が,各外相の回想録に記されています. しかし,最終的には5月25日,在スウェーデンの岡本公使がバッゲに対し,調査の必要があるので回答には相当期日を要する旨伝え,この交渉は事実上打ち切りとなってしまい,これ以上の進展はありませんでした.
また,スイスでは藤村芳朗海軍武官が,4月下旬から6月にかけて,米国の在欧ダレス機関と接触しながら極秘裏に和平の瀬踏みを行うも,海軍首脳部の反対に遭って沙汰止みとなったとされています.
6月頃からは岡本清福陸軍武官が中心となって,在バーゼル国際決済銀行理事の北村孝治郎氏,同じく同銀行為替部長の吉村侃氏等により,人を介して矢張りダレス機関に対し和平工作を進め,加瀬公使をも交えて東京に請訓したものの,東京がこれに反応を示さず,これまたチャンネルは切断されました.
一方,東京では,河辺参謀次長が東郷外相を往訪し,ソ連の参戦防止について懇望する所があり,小沢軍令部次長からも同様の申し出があり,更に梅津参謀総長からも同様の申入れがありました. 東郷外相としては,ソ連の参戦阻止の交渉の如きは既に時機を逸したことと認めながらも,戦争終結の観点からソ連との関係に対処しなければならないものとみて,終戦工作の意図を固めるに至ります.
5月中旬,鈴木首相,東郷外相,阿南陸相,米内海相,梅津参謀総長,及川軍令部総長が出席して再考戦争指導会議が開催され,対ソ問題が討議されます. 会議では種々の議論がありましたが,結論としては,まずソ連の対日参戦防止に努め,進んで好意的中立を獲得し,延いては戦争の終結に関し我が方に有利な仲介を為さしめる目的を持って,速やかに日ソ両国間の話し合いを開始することにありました. 他の交渉が尽く潰えたのは,よりによって,日本の政治指導部が,一番警戒を要すべきソ連に目を向けたからに他なりません.
こうして東郷外相は,その決定に基づき,対ソ交渉開始に乗り出します. その第1段階として,広田弘毅元首相に対して,マリクソ連大使との交渉を委嘱します. 広田元首相は,6月3日夕,箱根強羅ホテルにマリク大使を訪問して会談しますが,この会談は,此の後幾度も重ねて開催されるに至ります.
広田は交渉の席上,先ず今次の大戦に当たって,日ソ両国が干戈を交えるに至らなかったことを幸いとし,日本としては変転する事態に於てアジアの安全を希望し,アジアに於て大なる部分を領有するソ連に,その安全の基礎を見出すものであることを述べましたが,マリクも今次戦争中平和の事態に於て任務の遂行しうることを喜ぶ旨を答えました. しかしマリクは,日本には外国筋の影響を受けた諸勢力があり,殊に軍人及び政治家中にそれがあって,日ソ国交上悪影響を与えてきたことを指摘します. これに対し,広田は,現在に於ては自分の知っている多くの者は対露提携論者であること,及び過去に於ても伊藤博文,後藤新平の如き親善論者があったことを説き,自分もその流れを汲むものの一人であることを述べました.
4日,マリクは広田を夕食に招待しましたが,その席上で広田から,ソ連は戦後復興に努力し,又欧州に於ては失地を回復した上,隣国との関係改善に意を用いているものとみられる所,当方に於ても同趣旨の考えを有することと思考されるが,日ソ両国間には中立条約が遵守されているので何ら懸念する要は無いにしても,後1年で期限満了するに付き将来のことを考える必要があり,その期限内にでも日ソ友好関係を増進したい意向なのでその形式などを目下研究中の所,それに対するソ連政府の大体の意向なりとも承知したい旨を述べます.
それに対しマリクは,アジアの安全問題については昨日日本側方針の大要を承知したが,日ソ華三国関係に関する具体的形式は如何するつもりかと言う質問を投げかけます.
広田は,日中間には現在戦争が行われている関係もあり,中国の事については目下の所明瞭な事を言い得ないが,少なくとも日ソ間については従来存在した友好関係を一層推進していき,中国に対しても同一の考えを有する国家として,暫時参加方を誘導したいと考えていると答えています.
次いでマリクは,ソ連に於ては終始一貫平和政策を遂行してきたいにも関わらず,ドイツの如き国家が存在した為独ソ開戦となった次第で,当方殊に日本に対しても同様平和政策を以て努力してきたにも関わらず,反対勢力が強かった結果所期の成果を挙げるに至らず,従って一種の割りきれない感情乃至後味を残し,自ずから不信任及び安全欠如の感を与えることとなった所,これを払拭するについて如何なる具体的方法を考慮しているか問うてきました.
広田は,暫時日本に於てもソ連の態度を正解するものが多くなってきたので,この機会にかねての念願である日ソ関係の根本的改善に乗り出したい意向で,ソ連側の意向をも聴取の上その方向に運ぶべく,又ソ連がサンフランシスコ会議に於てインドなどの独立を主張している点なども,結局東方に於て日本が遂行しつつある所と軌を一にする次第であるから,これらの点をも加味し,相当長期間に亘って日ソ間に平和関係の持続するが如き方途を立てたいと述べ,我が方として条約など形式の如何は問う所でも無いと言い添えました.
マリクは,それに対し,この意見は私見か,日本政府の意向であるかを尋ねます.
広田は,この意見は日本政府及び国民の意向であると諒解されたいと述べました.
マリクは,昨日と本日の両日の会談で,日本側の意向を大体承知したので,しかと研究の上試験を開陳することとしたく,若干時日を戴きたいと述べます.
広田は尚も,根本の考えは両国間に長期に亘り相互に不安の無い国交を維持する基礎を立てたいことに他ならないのであり,この考えさえ決定すれば,他の枝葉末節の問題は自ずから解決を見出し得べく,現在こそは根本問題解決上絶好の機会であると考えられるばかりで無く,外務省は勿論政府全体としてもその機であるのを幸いとして乗り出したものであると述べました. そして,この問題に関して,ソ連政府の早急の回答を希望しましたが,マリクは充分研究の要がある為,早くても来週初めとなろうと述べました.
そして,馬鹿正直にそれを信じた広田は,翌週末まで待った挙げ句,会見の申し出が無かったので,6月17日,マリクを食事に招待しようとします. しかし,マリクはそれを多忙によりとして断りました. 窮した日本側は,6月24日午後にマリクの下に広田を遣り,前回の申し出に対するソ連側の意向を質問しますが,マリクは前回に対する態度をがらりと変え,広田の提案は抽象的であるから,これに対する具体的見解を承知した上で,本件会談を本国政府に報告すると繰返すのみであり,とりつく島もありませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/18 23:19
【回答】 さて,1944年,北方のアリューシャン列島が奪還されると,その地を基点にした,千島方面への侵攻作戦が懸念されました. 従って,北樺太やカムチャツカに向かう日本船も,自衛の為に火器を搭載する事が必要になってきました. ただ,これらの船舶がソ連の港に入る場合に起こりうる紛議を避ける為,予めソ連側の了解を得る必要がありました.
5月19日,佐藤大使はロゾフスキー代理に対し,此の事についてソ連側に於て誤解の無い様希望すると共に,ソ連領事がこれに対する必要な許可を与え,かつ現地官憲に対しても何ら誤解を生じない様手配されたい旨を申し入れます. これに対し,ロゾフスキーは,問題は複雑であり,武器を搭載した船舶は単なる商船又は漁船と異なるので,関係機関及び条約部とも協議する必要があると述べました. よって,佐藤大使は,重ねてその武装の目的は自衛にある点を強調し,ソ連領海内ではソ連側の指示に従い,或いはその武器の封印を行うなどの措置を執っても差し支えない旨を述べますが,ロゾフスキーはそれには回答しませんでした.
6月3日,佐藤大使はロゾフスキーに呼び出され,ソ連政府としては漁業送込み船舶が武装してソ連諸港に入港しない事を希望しない旨を答えてきました. そこで大使は,戦時状態下に於て船舶の武装が絶対必要であるのに鑑み,ソ連側で再考される様要望しますが,ロゾフスキーは日本の対米英戦に対するソ連の厳正中立の立場を説いて動きませんでした.
6月27日,ソ連外務人民委員部ジューコフ極東部長は,駐ソ日本大使館の亀山参事官を呼び出し,以下の書簡を渡します.
―――――― ロゾフスキー人民委員代理は日本大使との会談に於て,ソ連政府は日本の対米英戦に厳格な中立の立場を維持するものであり,この見地からソ連政府は,何人に属する武装船舶たるとを問わず,ソ連の港に入る事に反対する旨を述べた. ソ連政府のこの明白な声明にも関わらず,6月14日,日本船金津丸は大砲及び機関銃により武装してオハに入港した. 右に関し,ソ連政府は日本政府に対し,日本武装船舶のソ連港へ入港する事の望ましくない事を想起するものである. ―――――― 亀山参事官は,開港場であるオハへの入港については,前年もソ連側から異議の申し出が無かった事を述べますが,先方はこの問題に対し,ロゾフスキーの声明以外何ら付加する事が出来ないとの態度を示しました.
ところが,7月5日,現実的な問題が発生します. 日本船神明丸が,カムチャツカ・オゼルナヤ漁場の沖合であるソ連領海内で碇泊荷役中,領海に侵入してきた米潜水艦によって撃沈されると言う事件が発生したのです. 此の事については,ソ連側もモスクワに於て,国籍不明潜水艦による撃沈事件であるとして,日本政府に通報してきました.
7月19日,佐藤大使はロゾフスキーに対し,次の声明を手交します.
―――――― 日本政府は,国籍不明の趣である潜水艦による日本船・神明丸の撃沈に関する7月8日のソ連政府の通報に接し,7月5日ソ連領水内に於て行われた同船攻撃に関する一切の状況を仔細に検討した. その結果,日本政府は,この不法攻撃は米国潜水艦の所為とする結論以外に到達するを得ないものである. 右に関連して,次の事項は特に注意を要する. 1. 千島以北のオホーツク海に於て,最近多数の米国潜水艦が現認された. 特に7月5日乃至7日の間に於て,右潜水艦の数は9隻に達した. 2. 右米潜水艦は特別の電波発出方法を使用しており,右は他の海域に活動する米潜水艦のそれと明瞭に 異なる特徴を有する. 右の事実からして,オホーツク海で活動している米潜水艦は特殊の任務を有する者と判断しうる. 7月5日日本船攻撃後3時間にして,この攻撃を行ったものと推定される1米潜水艦から,その基地に宛て た前記特別の方法による無線通信を聞き得たが,更に日本時間同夜12時同性質の通信が反復されるのを聞いた. 3. 現地日魯会社代表の在ウラジオストック日本総領事館に宛てた電報には,攻撃を行った潜水艦は米国の ものである事を明白に記載しており,右は現状に於て何人もこの攻撃が,米潜水艦の所為である事に つき,疑念を有しなかった事を思わしめる.
本件攻撃は,ソ連領水内で白昼日本の1船舶に対して行われたものであるが,日米両交戦国に対し厳正中立を維持せんとするソ連政府の明白な要望に従って,この船舶はソ連領水に入るに先立ち一切の防御的武器を撤去していたものである. 日本政府は右ソ連側の要望に副うに当たって,ソ連政府に於て如何なる交戦国に属する事を問わず,一切の武装船舶を自国領水に立ち入らしめず,かくしてソ連領水に於ける中立を侵害する,この敵対行為の行われる事を防止する為,一切の必要な措置を講ぜられるべき事を期待した次第である. 上記の次第に鑑み,日本政府はソ連政府に対して先の要望を提出する. 1. ソ連政府は米国政府に対し,ソ連領水の中立を尊重すべき旨の保障を要求されん事を望む. 日本政府はこれを期待すると共に,ソ連政府が右米国政府に対する申入れの結果を通報されるに 於ては,これを多とする. 2. 漁業経営の為,又オハから石油積み出しの為,ソ連領水にある一切の日本船舶の安全を将来に亘って 保障する為,ソ連に於て今後有効な措置を執られたい. ―――――― これに対し,ロゾフスキーは,神明丸の遭難に際しては第1報に接するや,モロトフの意向で直ぐに日本大使館に通報したものであること,また,損害は神明丸のみならず,ソ連側にもオビ号が撃沈される被害が生じた事,潜水艦の国籍は今日まで確認し得ない事,日本側要望の中でソ連側からする対米申入れの件だけは,日ソ間で審議すべき問題の範囲を逸脱する故にソ連側として受諾困難な事,その他に関しては周到な注意を以て審議すべき事などと回答します.
8月8日,佐藤大使はロゾフスキーに対し,神明丸事件に再び言及して,まず,神明丸撃沈は米国潜水艦の攻囲である事は殆ど疑いの無い事なので,ソ連政府は米国政府に対し,ソ連領水の中立尊重について申し入れられるであろうか,次いで,漁業及び石油積込みの為,ソ連領水内にある日本船舶の安全保障が為されるのであろうかと言う2点を尋ねます. それに対し,ロゾフスキーは最初の点は既に日ソ間の交渉題目になり得ない事を述べ,それはソ連政府の見解でもあると言い,保障の点については,攻撃した船舶の国籍が判明しない為解決困難であり,ソ連領水内の安全についてはこれを保障した事例も無く,ソ連側はその領水を防衛し警備しているが,然りとてその安全を保障し得ないと答えるに留まります.
その煮え切らない回答に対し,佐藤大使は,神明丸事件はソ連領水内の出来事であり,ソ連領土内で中立国人が保護される事と同様であるべく,その意味で日本船舶の安全確保を依頼した次第である事,及び撃沈が米潜水艦の行為である事は何人も疑わない事を重ねて説明しますが,ロゾフスキーはそれに対し,ソ連領水内で戦闘行為乃至衝突などを防止する為に能う限りの方策を採って警備しているが,事件は突然で有りこれは明らかにし得なかったこと,船舶を一々警備することは不可能であり,またその様な義務は課されていないこと,日本の警備区域に於てもソ連戦が撃沈されたことなどを述べて反論しますが,佐藤大使も,公開に於ける撃沈ならば日鵬丸の如く日本側は何人に対しても抗議し得ないし,ソ連船の場合も又同様であるが,忠神明丸の場合はそれらと趣を異にすると説きます.
結局,ソ連側はそれ以上に答えず,神明丸の一件は有耶無耶になってしまいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/15 22:41 青文字:加筆改修部分