【回答】
梁職貢図と好太王碑を合せて考えると,新羅は建国からしばらくは百済の影響下にあり,その後,百済とともに高句麗の支配下に入った.
(一時,日本の支配下に置かれるが,好太王が取り戻す.
新羅が日本の支配を受けていた件なら,既に広開土王碑にある.
それによると,
「新羅と百済は高句麗の支配下にあったのに,近年倭に従うようになった.
好太王は倭を蹴散らして,新羅と百済を再び支配下に置いた」
という事が書いてある)
実際には百済はそこまで弱くなくて,一時的に高句麗に屈する事はあっても,対抗し続けていた.
その為もあって,日本とは手を組み続けた.
その間に力を付けた新羅は,高句麗から独立し,時に百済と同盟したりなどしながら,更に勢力を伸ばす.
更に力を付けた新羅は,百済にちょっかい出そうとしたんで,百済は日本と共同で新羅に当たる事にする.
孤立した新羅は困って唐と手を組み,高句麗・百済を滅ぼす.
日本は百済を再興しようとして,唐と新羅の連合軍に敗れる.
ちなみに,この間の日本の半島に対する動向は,日本書紀にある任那日本府をどう解釈するかで,大きく変わるんで難しい.