人物紹介 / 荀攸


荀攸

一般的には「荀彧の年上の甥」として知られているが、厳密に言えばもっと血縁は離れている。
(荀彧の祖父と荀攸の曽祖父が兄弟であり、荀彧と荀攸は7親等にあたる。)

曹操に仕える事ができたのは相当な偶然の重なりにも助けられている。
当初は朝廷に仕えており、董卓の専横に怒り暗殺を計画したがバレて捕まり、死刑判決を受ける。
しかし董卓が呂布に殺されたために助け出されて生き延びている。
その後、蜀の太守に志願して任地に赴こうとしたが、劉焉が道を塞いでいたため到着することが叶わなかった。
止むを得ず荊州にとどまっていたところで荀彧の声がかかり、曹操に仕えることとなっている。

董卓の治世が長く続いていれば処刑されていたであろうし、
無事に蜀へたどり着いていたら曹操のスカウトも届かず、無名のまま一生を終えていたかもしれない。
(史実通りの没年だと、劉備の蜀入り前に病没しているため劉備に仕えることはなかっただろう)

政治戦略と人脈に優れた荀彧に対し、彼は実戦兵法に長けたらしく、
正史においては官渡で己の策によって文醜を戦死させるという大戦果を挙げている。
陳寿はその参謀としての頭脳・力量に対し、賈詡と並び「張良や陳平に次ぐ」と当時最高級に近い賛辞を贈っている。
(張良・陳平は共に前漢の建国者劉邦に仕えた伝説的名参謀)
尚、裴松之はこの二人が同じ伝に記されていることに異論を唱えており、
「荀攸と賈詡では夜光珠とオガラの灯くらいに違う」と評している。

演義では曹操の魏王戴冠に難色を示し「お前も荀彧のようになりたいか」と恫喝される場面があるが、
正史では曹操が魏王となるより2年ほど前に亡くなっており、この場面は後世の創作とされる。
無論、史実では曹操との関係も特に悪化した形跡はなく、荀彧と違い魏の功臣としてちゃんと曹操の廟に祀られている。

(補足すれば荀攸没後に曹操は荀攸の話題を出す度に決まって思い出し泣きをしたり、荀攸の今際の際には布令として
「荀攸と周遊すること二十余年、彼には一つの失点もなかった」、「荀攸は真の賢人であり、温・良・恭・倹・譲により
これを得ていた。孔子が晏嬰の徳を称えたように、荀攸こそその人である」と述べて大いに称賛したという逸話がある)