司馬懿の次男。母親は張春華。正室は王元姫。晋王朝の成立後には文帝と呼ばれる。
249年の司馬懿のクーデターの際には、計画した父や兄の司馬師に対して、前夜になって兄から伝えられたという。
255年に兄が亡くなったため、司馬家の家督と権力を受け継ぐ。
その後は諸葛誕の反乱、魏帝・曹髦のクーデター、鄧艾と鍾会の蜀侵攻などの危機を乗り切り、三国鼎立を崩す。
蜀平定の翌年に晋王の爵位を与えられ、魏王朝からの禅譲の準備が整いつつあるなか、さらに次の年に死去。享年54歳。
彼自身はあくまで兄の筋を尊重しており、兄の養子とした司馬攸を後継にしようとしたが、攸の実兄である司馬炎が格下になってしまう事を危惧した群臣の猛反対に遭い、結局司馬炎を後継とした。
このことは最期まで懸念だったようで、死の淵で司馬昭は攸の手を炎に握らせて兄弟団結を強く願いながら世を去ったが、その願いは報われなかった。
司馬昭がどのようにして権力を固めたかは同時代から分析されており、反乱の首謀者は処刑する一方で、
その配下は許すなど硬軟織り交ぜた手法を使うこと、政治的な煩雑さを取り除き民心を掴んだことなどが挙げられている。
中国のことわざになったエピソードがある。
魏帝・曹髦が司馬昭を討つべく兵を挙げた際、「司馬昭の心は路傍の人も皆知っている!(司馬昭之心、路人皆知也)」と
発言している。「権力を狙うものの心は誰でも知っている(お前の野心は分かっている)」という意味になった。
コーエーのゲーム「三國無双」で司馬昭と共に妻の王元姫が参戦すると、
その美貌への称賛と嫉妬を込めて「司馬昭之妻、路人皆妬也」というパロディが生まれたとか。