司馬懿の長男。母親は張春華。晋王朝の成立後には景帝と呼ばれる。
若い時から周囲の評価は高く、上品なイケメンで「沈毅にして大略多し」と評価された。
最初の妻は夏侯尚の娘・夏侯徽であり、司馬師もよく相談したが、魏の宗室に連なる彼女とは次第に不仲となり毒殺した。
249年の司馬懿のクーデターの際には、父とともに計画を立て、叔父の司馬孚とともに洛陽の城門を整然と押さえた。
他人に失敗の責任を取らせてもよい場面で「それを命じた自分の責任だから」と引き受けることが多く、
それで信望を得た記述が残る。
毋丘倹と文欽が反乱を起こした際には鍾会・諸葛誕らを率いて自ら討伐に出ている。
目に悪性の瘤があり、手術して間もないうちに奇襲を受け、片方の目玉が飛び出してしまったという。夏侯惇もビックリである
その後、症状が回復しないまま、後事を弟・司馬昭に託して死去した。享年48歳。
司馬懿から引き継いだ司馬氏の隆盛を確実に次へと繋げた彼の、唯一の難点は男児を持てなかったこと。
対処として司馬昭の第二子・攸を養子としており、本来ならば司馬家の家督は攸が継ぐはずだが、実兄の炎が司馬昭の長男であるため、司馬炎が司馬家の家督を継いだ。
司馬一族全体としてはその時その時の妥当な手を打ったまでなのだが、次子が伯父側の養子になったことで兄弟の序列に混乱が生じてしまったことが、後にツケとなって晋王朝に降りかかる。