人物紹介 / 王允


王允

後漢末期の高官。演義では序盤のハイライト・美女連環の計の黒幕。
若い頃から「王佐の才」の誉れ高く、董卓に召し出される以前からその硬骨を示す逸話には事欠かず、
黄巾の乱においては張譲の内通を霊帝に直訴し、逆に張譲の恨みを買って投獄されてしまっている。

董卓が実権を握ると司徒に任じられ厚遇されるが、
暴虐を繰り返す董卓に硬骨漢の彼が忠誠を誓うはずもなく、面従腹背を貫きながら董卓を除く機会を虎視眈々と窺い続けた。
そんな彼の元に呂布が相談に訪れると、彼は呂布を言葉巧みに説き伏せて味方につけ、董卓殺害を決意させた。
この時呂布は董卓の侍女と密通しており、それが露見することを恐れていたと言われ、これが演義で大きく脚色されて美女連環の計になったと伝わる。

果たして董卓殺害には成功するものの、王允もまた天下の器ではなかったようで、その事後処理においては
・董卓からは恩も受けていたと涙した蔡邕を、周囲の助命嘆願も無視して処刑
・投降を申し出た李傕・郭汜を断じて拒否、さらに賈詡を職から解任
・さらには董卓に仕えていた涼州出身の兵たちまでも徹底追放
・呂布から董卓の財産を配下の将兵に分け与えるよう提案されるも拒否
とその融通の利かなさ、器量の小ささを露呈してしまっている。
(配下や兵士に至るまで粛清・追放した理由として、王允本人は「同年に何度も恩赦を施すことは慣例に反する」としているが、実際には徐栄・胡軫らは降伏を許されており言い訳の印象が拭えない)
特に2番目の賈詡と李傕らへの行為は後述するように自分に対する災いの直接的原因になってしまった。
蔡邕を殺害したことで知識人たちの反感を買った上、呂布をはじめとした将軍・武官たちに横柄に接していたため彼らの評判も悪く、
やがて李傕らが元々董卓配下だった賈詡を迎え入れて策を授かると、このように人望面で難があった王允は軍の統制が取れず、長安まで攻め寄せた李傕軍の前にあっさり戦線崩壊。
呂布から撤退を勧められるもこれを拒んで死を選び、李傕らによって一族皆殺しの極刑に処された。

漢には忠誠を貫いているものの、張譲との対立や董卓暗殺は権力抗争の側面があるとも見られ、
また董卓殺害後の対応の稚拙さも指摘され、史書においてはその評価が二分されている人物。
蔡邕に「お前を生かしておけば私の悪評が残る」などと言い放った逸話が残り、
『後漢書』では「功は残したが元は醜い」と評されているが、裴松之は「王允がそんなことを言うとは思えない」と強く否定。
また後世の学者は「本意はいつでも漢への忠誠にあった」と擁護している。

演義では一貫して漢への忠義に生きる烈士として描かれ、美女連環の計に先立って曹操に七星の宝剣を授け、董卓への刺客として差し向けるが失敗するという場面がある。
また董卓暗殺後についてもあまり明確には描かれず、長安陥落時に殺害されるという形であっさり退場している。
ただ民間伝承においては董卓に両親を殺された醜女の貂蝉を、美女連環の計を成立させるために知人であった華佗に頼んで死んだ美人の首と挿げ替える、という鬼のような行動も立案しており、大義のためなら手段を選ばない人物というイメージは古くから持たれていたようである。

Menu

最新の20件

2025-01-14 2025-01-13 2025-01-10 2024-12-31 2024-12-20 2024-12-19 2024-11-25 2024-11-20
  • 人物紹介/王允
2024-11-15 2024-11-03 2024-10-30 2024-10-15 2024-10-10 2024-10-01

今日の20件

  • counter: 6874
  • today: 2
  • yesterday: 0
  • online: 10