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深層ドキュメント 麻生が「解散先送り」を決意した夜(1/2)
2008年11月10日 文藝春秋
批判の多いホテルでの会食。そのとき、麻生はある人物を招いた――
 君子豹変す、と言うなら、その夜の首相麻生太郎はまさにそれだった。
 
 残暑の余韻も消え、湿った秋の夜風が吹き込む十月二十六日の日曜日の午後八時すぎ、東京・紀尾井町のグランドプリンスホテル赤坂。中国料理店「李芳」で、コース料理を食べ進める首相秘書官らを尻目に、麻生はビールも口にせず、焼きそばだけ頼んで想いにふけっていた。
 
 いよいよ伝家の宝刀である解散の剣を十月末に抜くか否か。「十月三十日総選挙」の真偽に永田町の関心は集まるのに、その判断を側近にさえ気取らせない風である。前日まで中国・北京で金融危機をめぐり各国のトップと渡り合った第七回アジア欧州会議(ASEM)首脳会合の余韻にひたるでもなく、その日午後、東京・秋葉原の街頭演説で「経済とか外交、これは麻生太郎がいま最も使える政治家だとオレは思っている」と吠えた熱狂も忘れたかのような静かな佇まいであった。
 
「お二人がつきました」。午後九時すぎ、別の秘書官から携帯電話に連絡が入る。麻生は総理番記者に気づかれないようエレベーターに乗り込むと、階上のスイートルームに向かった。
 
 待ちかまえていたのは公明党代表太田昭宏と幹事長北側一雄だった。週前半から何度も頼み込み、ようやく実現した首相との極秘会談である。ホットコーヒーがサーブされるやいなや、二人は必死の形相で早期解散を説いた。
 
「自民党があえて首相交代までやったのは、総裁選後すぐの解散を狙ったからでしょう。ここで解散しなければ、総選挙を断行できない総理だと言われる。野垂れ死になってしまう」
 
「十二月になれば、中小企業の倒産が相次ぐかもしれない。解散先延ばしは絶対に避けるべきだ」
 
 だが麻生は沈黙を貫き通した。解散できる環境はそのつど整える。ただ断行するかどうかは自分ひとりで最後に決める。それでなければ、とくに公明党・創価学会の圧力に屈したとの印象を残せば、民主党代表小沢一郎との乾坤一擲の決戦を勝ち抜くことなど望み得ないではないか。
 
「また、話しましょう」。小一時間の会談の最後、二人の顔に失望があらわになるのを見つつ、それだけ言って麻生は立ち上がった。ひと口も飲まなかったコーヒーは冷め切っていた。
 
 国内政局より国際政治と金融危機対応を優先する、つまり解散先送りに麻生の真意があることを太田と北側は痛切に思い知らされた。加えて前首相福田康夫から麻生への交代を後押しし、十月解散へのレールを敷いたつもりだった連立与党の首脳陣さえ入り込む余地のないところまで、解散権を掌に握り固めた麻生の豹変をまざまざと実感させられたのだった。
 
「……それでも十一月総選挙の体制を解くわけにはいかない」。会談の翌日夜、北側らは創価学会幹部にそう報告するのが精いっぱいだった。
 
■「話は全然変わる」
 
 もとより政権発足前後の麻生はそうではなかった。
 
 自民党総裁選に突入以降、麻生は、側近の国対委員長大島理森や総務省から首相秘書官に抜擢することになる岡本全勝ら数人のスタッフと、総裁選出の受諾演説にはじまり、組閣名簿発表時の記者会見要領、所信表明演説から『文藝春秋』に寄稿する手記に至るまで同時並行で原稿づくりを進めた。
 
「おい、戦後、首相が所信ないしは施政方針演説で冒頭解散を明言した例はあるか」。演説と手記の草稿を手に麻生がそう尋ねたのは総裁選終了間際のことだ。岡本らが調べると、偶然にもそれは昭和二十三年、麻生の祖父吉田茂の第二次内閣に前例があったというオチがつく。この時点で麻生が冒頭解散を見定めていたことは間違いない。
 
 その所信演説で小沢に向け内政・外交の主要課題の賛否をただす異例の戦法に出、手記の最終チェックも終えた九月二十九日深夜。東京・神山町の自宅書斎にいた麻生の携帯電話が鳴った。北側からだ。「補正予算案の審議に持ち込まれたら、スキャンダルを抱える閣僚が狙い撃ちにされ、ずるずる民主党ペースにはまり込みますよ」。おそらくは元公明党委員長矢野絢也の証人喚問を恐れてではあったろうが、冒頭解散を念押しする忠告に対し、その夜の麻生は多弁であり、融和的だった。
 
「心配しなさんな。これから米国で金融安定化法案が成立していく。日本は我々の補正予算だ。日米協調で世界の金融危機に対抗していく時に、民主党は反対するのか、という戦法でいく」
 
 早ければ十月三日の代表質問終了直後、遅くとも補正予算審議の冒頭には、解散を断行するという意味だった。だがその数時間後、世界経済は米国発で暗転する。
 
 予想に反して米議会下院が、金融機関から不良債権を買い取る制度を盛り込んだ金融安定化法案を否決し、ニューヨーク株式市場はダウ工業株平均が前週末比七七七ドル安と史上最大の下げ幅を記録した。ウォール街、そして米経済の釜の底が抜けたのである。
 
 三十日早朝、外務省出身の首相秘書官山崎和之からの電話で起こされた麻生はすぐ指示を飛ばした。
 
「これで話は全然変わる。米議会が改めて金融安定化法案を成立させるのは一週間後か一カ月後か、すぐ現地であたるんだ」
 
 翌十月一日。国会では小沢が麻生の質問に直接答えず、民主党の政権構想を訴える代表質問に臨んだことが注目を集めたが、麻生の関心は既にそこにはなかった。日米関係を主軸にした外交と、金融危機対策及び景気回復策。麻生が政権と自分の政治力の命綱だと演説と手記で見定めたテーマが目の前に、しかも世界規模で浮上したのだ。財政と金融を再び一体化するのかという批判を意に介さず、両方を所管させた財務・金融相中川昭一を「責任閣僚」として押し出す格好の舞台でもある。
 
「オレの感性は、解散より景気対策と金融危機対応だとアラームを鳴らし始めた」。その夜、麻生は側近らにそう語り、追加の第二次補正と、昨年度末に途切れた地方銀行向けの金融機能強化法の復活に向け、「頭の体操」を始めるよう指示したのだった。
 
 もうひとつの転機は、二日後の十月三日、側近の大島からの電話でもたらされた。
 
 本来なら解散日と記録されたかもしれない代表質問の最終日、民主党国対委員長山岡賢次から大島に非公式に打診があった。「補正予算は来週、衆参二日ずつであげる。関連法案を含めて民主党を賛成に回らせる。だから十月十日で話し合い解散の言質が欲しい」。
 
 国会対応を一任された小沢からの指示で、山岡は早期解散の確約に向けて動いたのだろう。だがその油断と隙を大島は見逃さなかった。
 
 大島は「解散は総理の専権だ」と山岡をかわしつつ、逆に麻生には「これはチャンスです」と指摘した。話し合い解散を匂わせ続ければ、民主党は国会で対決姿勢を貫けないはずだ。補正はもちろん、福田政権の崩壊につながったテロ新法から果ては空席の日銀副総裁の同意人事まで、果実を手にすることができるかもしれない……。
 
 解散戦略のふりをして、国対戦略をやればいい。瞬時に麻生はそう理解し大島に国会対応を任せた。
 
 翌週、新聞各紙には、補正だけでなくテロ新法の早期採決を民主党が容認したとの記事が踊った。そんなある日の衆院本会議。議場の自分の席にいた麻生は、こんこんと後頭部をたたかれて振り返った。
 
 元首相の小泉純一郎と森喜朗がにやにや笑いながら見下ろしていた。「おいおい、太郎ちゃん。どんな魔法、いや脅しを使ったんだい。テロ新法の採決容認まで、民主党が降りてくるなんてさ」。小泉の軽口に麻生は神妙なふりで答えた。「いいえ、誠心誠意、政党間協議をお願いしただけです」。
 
 麻生の耳には、十月解散を前提に最後の力を振り絞って民主党がテレビのゴールデンタイムにCMを流すという情報も入っていた。民主党に選挙資金を使い果たさせ、兵糧攻めにする。そのためにも、早期解散の風は吹くままに任せ、併せて国会で民主党がベタ降りするのを待てばいい。麻生にすれば、解散先送りの本心を気取られてはいけないのだった。

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