中国のルネサンス


中国のルネサンス

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なさんこんにちは。平賀・キートン・太一です。今日は中国の宋代について講義いたします。

都学派という東洋史の学派があります。京都大学に在籍した研究者を中心にしたグループです。京都学派の創始者である内藤湖南博士は、宋代以降、アヘン戦争までの中国を「近世」と位置づけ、唐代までの「中世」と一線を画しました。その後内藤博士の弟子で京都学派のエース、宮崎市定博士は、新しく活発な宋代を「中国のルネサンス」と評価しています。宮崎博士は宋代を研究し、宋代に近世の幕開けに当たるルネサンスを見出すことで、師の唐宋変革論の正しさを証明したのです。京都学派の唐宋変革論に対しては多くの異論が提起されていますが、中国人の研究者も含めて、多くの研究者に支持されています。

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宮崎市定

代の中国は、まさしく中国のルネサンスというにふさわしい、経済が活発で文化の花開いた時代でした。世界に与えた影響も小さくありません。その特徴は次の5点に集約されます。 機〇梁臧廚粒萍
供(玄政治
掘_瀛招从僂粒莇
検\菴陛文化
后〔餌下腟舛了代
機〇梁臧廚粒萍…宋代の主役は士大夫と呼ばれる人々です。唐代の支配層であった貴族は五代十国時代に没落し、宋代には新興地主層が実力をつけていました。彼らは形勢戸と呼ばれましたが、政治的な活躍の場を求めて、積極的に科挙にチャレンジしていきます。合格して上級官僚となった者を士大夫といいます。科挙の合格には、それに必要な教養を身につける必要がありますから、幅広い教養を生かして士大夫は宋代の文化をもリードしていくことになります。
供(玄政治…軍人と地方勢力の権力をそぎ、皇帝に忠実な科挙官僚による中央集権システムが確立されました。軍人よりも文官が重視され、一種のシビリアン・コントロールを機能させています。
掘_瀛招从僂粒莇掘賃腟模な開発が行われ、農業生産力が向上すると、全国規模の流通経済が促進されます。都市は昼夜を問わず活況を呈しました。この事態に対応して大量の銅銭が鋳造されますがそれでも足りず、さまざまな代替貨幣が使用され、ついには紙幣が登場します。
検\菴陛文化…学問、文学、絵画といった宋代の文化をリードしたのは士大夫ですが、実力をつけた庶民による文化も発展しました。火薬、羅針盤、活版印刷の三大発明も、ヨーロッパのルネサンスに先んじて宋代でなされています。
后〔餌下腟舛了代…宋王朝は北方・西方の諸民族に終始苦戦し、劣勢に立たされます。この中で、士大夫を中心に漢民族の民族意識が確立されていきます。一方同時に、周辺民族にも民族意識が顕著に芽生え、中華帝国に台頭の国家意識を持ち、その証として独自の文字を制定する民族が続出します。

皇帝たちの物語

れではまず、宋王朝の主な皇帝たちの業績を見ることで、宋代を時系列に概観しましょう。 朝の創始者である太祖・趙匡胤は、軍人出身です。父も軍人でした。五代の最後の王朝後周の世宗に忠実に仕え、世宗の統一事業に大貢献しました。世宗が崩御後、陣中で軍人たちに即位を求められ、幼少の恭帝からの禅定を受けて皇帝に即位し、宋王朝を創始しました。これを陳橋の変といいます。即位後は、自らは軍人出身であるにもかかわらず、軍人が力を持ったことが五代十国時代の戦乱の原因と考え、軍人と地方勢力の力をそぎ、文官優位の君主独裁体制を確立します。 代皇帝の太宗は太祖の弟です。太祖の時代には、五代十国の「十国」のうち、北漢と呉越が残存していましたがこれを平定し、統一をなしとげました。太宗は太祖を殺害して即位したのではないかという疑惑が当時からあり、千年議論しても結論が出ないということで「千載不決の議」と言われました。実際に千年が経過した現在でも、真相はわかっていません。 本では、剛毅果断で仏教弾圧も行った後周の世宗を織田信長に、宋の太祖を豊臣秀吉、太宗を徳川家康になぞらえる説があります。天下統一と近世の始まりという共通点を念頭に置いたものです。 代皇帝・真宗の時代に、北方の遼は聖宗の下で最盛期を迎え、軍を南下させ宋に進撃しました。真宗は自ら出撃し遼軍と戦い、和議を結びました。これを澶淵の盟といいます。澶淵の盟によって最大の脅威であった遼との緊張が緩和し、宋は経済的繁栄に邁進できることになります。 代皇帝・神宗は、王安石を登用し、新法と呼ばれる国家再建改革を行いました。 代皇帝・徽宗は、芸術を保護し、自らも優れた作品を残して「風流天子」と呼ばれました。しかし、遼を滅ぼした金に攻められ、長男の欽宗に譲位して事態を収めようとしますが、徽宗と欽宗は多くの皇族・官僚など3000余名とともに金に連れ去られました。これを靖康の変といいます。 朝が滅亡の危機に瀕する中、欽宗の弟である高宗は南京で即位し、南宋を創始します。首都を臨安に定め、金との和平を成立させました。華北を失ったものの、南宋は高宗の即位以降150年存続します。高宗の南朝創始以前の宋を北宋ともいいます。 宋六代度宗の時代にモンゴル帝国が南宋に総攻撃をしかけ、南宋の滅亡は決定的になりますが、宋王朝への恭順を誓う残存勢力は、度宗の幼子恭帝、端宗、祥興帝を七代、八代、九代皇帝として相次いで即位させて抵抗を続けます。降伏した恭帝は北方へ連行され、端宗は逃避行の中で病死。は、崖山の戦いと称される最後の海戦で、敗北をさとった宰相陸秀夫に抱かれて入水しました。これによって、宋王朝は完全に滅亡しました。1279年のことです。 朝最期の皇帝祥興帝の悲劇的な最期は、日本人にとっては、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を思い起こさせます。祥興帝は最期の瞬間の直前まで、何をしていたと思いますか。今のみなさんと同じです。陸秀夫による、儒教のテキスト「大学」の講義を船内で受けていました。武力に勝る異民族に悩まされ続けながらも、文治主義を貫いた宋朝の矜持を象徴させた伝承かもしれませんね。

平和共存とゆらぐ世界観―宋の外交史

国の歴代王朝と宋の最大版図を比べてみましょう。ここでは漢、唐、明と比較していますが、いかにも領土が小さいですね。圧倒的な軍事力と権威で周辺民族を抑えつづけるのが通例の中華帝国とはひと味違い、宋は異民族に対する覇権主義をとりませんでしたし、とりうる軍事力もありませんでした。宋は漢人が主に居住する地域以外を支配することができず、また漢人が主に居住する地域も、部分的に異民族に支配されるという状況に甘んじていました。 代を通じて強大な周辺民族への対応に苦慮し続けますが、その一方で宋は経済的・文化的に空前の繁栄を続けていきます。これを可能にしたのは、周辺異民族と平和共存していくという選択と、それを互いに保障した和議、つまり国際条約でした。 議がもたらした平和と繁栄を享受しながら、和議は中国人が抱いている唯我独尊的な世界観と抵触しました。このため、宋の外交史は、和平論と主戦論が葛藤した歴史でもありました。

澶淵の盟と慶暦の和約

体的に見ていきましょう。宋の建国当初の外交的課題はなんといっても、北方の遼への対応でした。強大な遼は安全保障上の脅威だっただけでなく、重大な係争地・燕雲十六州を支配していました。

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雲十六州は現在の北京を中心とする地域で、万里の長城の内側にある漢人の居住エリアですが、五代十国時代に石敬瑭が後晋を建国する際に遼に支援を受けた見返りに、遼にこの地を割譲してしまいました。宋としては中国統一国家としての威信にかけて取り戻さなければならない地でした。燕雲十六州は資源が豊富であることに加え、軍事的にも非常に重要な意味を持ちます。なにしろ万里の長城の内側ですから、宋としてはこの地に遼軍が駐留する限り、常に華北を脅かされる立場に置かれます。 下統一を完成した宋の二代皇帝太宗は、燕雲十六州の奪回を目論んで北伐を行いますが、遼軍に撃退され、その後は両国が軍事的対立を続けます。宋の側は常に遼の軍事的脅威を感じていましたが、遼にとっては、宋から流入する商品を国民が求めたため、宋に経済的に従属する懸念を抱いていました。 は982年に即位した聖宗の下で最盛期を迎え、領土を大いに拡大しました。1004年、聖宗はついに宋への親征を行いました。遼軍は華北平原を一気に駆け抜け、黄河のほとり、澶州に達します。宋の朝廷は動揺し、多数の官僚は江南へ遷都する主張をしますが、宋の三代皇帝真宗は華北を死守すること決意し、自ら出陣して澶州の城に入ります。皇帝の督戦によって士気の上がった宋軍は遼軍の勢いを食い止め、軍は黄河をはさんで膠着状態になります。遼軍は伸びきった補給路に不安を感じ始めます。ここに和議を結ぶ余地が生まれ、交渉の結果、以下の内容で合意し、澶淵の盟が結ばれました。 ・宋は毎年絹20万疋、銀10万両を遼に送る
・宋帝を兄、遼帝を弟とする関係を維持する
・国境の現状維持
疋は織物の長さの単位で、1疋で着物が2着できるそうです。高級な絹が20万疋とは大変な量です。
淵の盟によって、960年の宋建国以来対峙してきた宋と遼のあいだに、40年ぶりの緊張緩和がをもたらされました。そしてこの和議は120年間も遵守され、争いの耐えなかった東アジアに安定と平和共存をもたらしました。これによって宋はますます経済的発展を享受します。そしてこの和議は、それまでの中国と周辺民族の間の朝貢関係ではなく、対等な立場で結ばれた国際条約であったという点で画期的なもので、宋人の歴史意識に大きな転換をもたらしました。 淵の盟から40年後、宋は盛んに侵入を繰り返していた北西方の西夏とも同様の和議を結びます。慶暦の和約です。西夏には毎年銀5万両、絹13万疋、茶2万斤が送られることになりました。 淵の盟と慶暦の和約によって宋は平和と繁栄を享受したのですが、多額の歳幣はそれなりに宋の財政を圧迫しました。金で平和を買う条約に民族主義の立場からの批判もありました。特に遼にたいしては燕雲十六州の奪回の悲願を求める声が絶えませんでした。

海上の盟と靖康の変

に対する雪辱の機会は、澶淵の盟から約110年後、八代皇帝徽宗の時代に訪れます。1115年、遼の支配下にあった女真族が金を樹立したのです。宋朝は遼を挟撃することを金に提案し、同盟を結びました。宋の使者が遼の領域に当たる陸路をさけて海路金に赴いたので、この同盟を海上の盟といいます。 ころが、宋は強敵と事を構えるほど足元が安定していませんでした。徽宗とその側近の政治に対する反感が国中に蔓延しており、漆園の経営者・方臘が起こした反乱の鎮圧に宋軍は手を焼きます。その後宋はようやく北伐軍を燕雲十六州に進軍させますが、なかなか首都・燕京を攻略できず、結局金に戦費の支払いを条件に燕京攻略を依頼します。金はこれを受けて燕京を攻略し、遼はついに滅亡します。金はあくまで海上の盟を遵守し、宋に燕京を明け渡し、代わりに莫大な戦費を請求しました。 朝はここで、国を滅ぼす重大な過ちを犯します。金との約束を履行せず、逆に新興国の金を一気に弱体化させようと工作しました。金の内紛に介入し、遼の残存勢力をも支援して金を攻撃させようとしたのです。憤怒した金は軍を南下させ、宋の都開封を攻撃しました。徽宗は「己を罪する詔」を発して退位し、帝位を長男の第九代・欽宗に譲りました。欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなどの講和を結び、金軍は撤退していきました。「己を罪する詔」は、皇帝が国難の責任を自らに帰して発するもので、中国の歴史上何度か発せられています。 ころが金軍が撤退すると、政府部内では講和を屈辱的とする盲目的な主戦論が台頭し、和議不履行の愚行を犯してしまいます。堪忍袋の緒が切れた金軍は開封を総攻撃します。1126年、靖康の変といわれる悲劇です。 40日間余りの攻防戦の結果、開封は陥落します。金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて満州へ連行しました。徽宗は9年ほど、欽宗30年以上北方の五国城に捉えられたまま生涯を終えます。 康の変では、宋朝の皇族を含め、3000名以上の女性が金へと連れ去られ、値段をつけられた上で金軍の将兵に与えられました。その多くは金の官設の妓楼である洗衣院に売られ、売春に従事させられました。人類史上に数限りなく見られる、人間を財産・商品として扱う蛮行の一つです。 ぜ宋は対金外交を誤り、靖康の変を招いてしまったのでしょうか。まず、新興国である金の力を見誤ったことは間違いありません。また、主戦論者と和平論者が激しく対立したのは澶淵の盟の時と同じですが、徽宗と欽宗が真宗のようなトップとしての決断を下すことができず、朝廷内部の対立によって二転三転した方針が金を憤怒させてしまいました。さらにいえば、澶淵の盟以降の平和と繁栄を享受する中で、平和共存体制に対して民族主義・国粋主義的な立場から不満がつのり、遼と同様の関係を金と構築するのはもうたくさんだ、という考えが士大夫たちの中に蔓延していたのではないでしょうか。


岳飛と秦檜―紹興の和議

康の変のあと、高宗によって南宋が建国されたのは前述のとおりですが、金は漢人を直接統治する自信がなく華北の占領地に、捕虜にした漢人官僚を皇帝に擁立した傀儡政権を立てて間接的に統治しようとしました。 の後も南宗と金は激しく対立し、軍事的緊張は続きます。南宋は内紛もあって政権が安定せず、もとより北伐をして失地を回復し、二帝を奪還する軍事力はありません。一方の金も、華北の数倍の人口を擁し、地理的にも気候的にも不慣れな江南地方に攻め入ると、しだいに苦戦することが多くなりました。 の状況の中で金との和平交渉を進めたのが南宋の宰相・秦檜でした。秦檜は靖康の変に際して金に連行された官僚の一人ですが、金の和平派の将軍タランとの間の黙約によって南宋に帰国します。高宗はただ一人金の内情を知る秦檜を重用し、頼りにします。南宋朝廷では岳飛ら対金戦で功のあった武将の発言権が増していましたが、高宗の本音は金との講和を望んでいました。秦檜は岳飛ら主戦派を弾圧し、金と以下の内容で講和しました。1141年、紹興の和議です。 ・淮水を国境とする。
・南宋は金に臣下の令をとる。
・宋は毎年銀25万両、絹25万疋を金に送る
議によって南宋は、靖康の変から15年ぶりの平和を得て、国民は戦争の重い負担から解放されました。また、歳幣も澶淵の盟に基づいて遼に贈っていた額と大差ありません。しかし、華夷秩序を倒錯した君臣関係、失地回復と二帝奪還の放棄は、南宋人にとってあまりにも受け入れがたい屈辱でした。 宋人は、紹興の和議がもたらした平和を享受しながら、行き場のない屈辱的感情の矛先を秦檜に向けました。死後秦檜は「売国奴」と悪罵され、逆に岳飛の戦果と忠君が過大に評価されるようになります。明代に造られた岳王廟の前には跪いた秦檜の像が建てられ、参拝者はこの秦檜像に唾を吐きかけるという悪趣味な習慣が最近まで続いていました。 檜については、その強権的政治手法や金とのパイプにまつわる疑惑も含めて、日本の研究者の間では評価が分かれています。一方中国では民族的英雄とされている岳飛ですが、その戦果は他の軍閥同様局地的なものに過ぎず、長躯北伐して二帝を救出させるには遠く及ばず、むしろその戦費に南宋の国民は苦しんでいたことがわかっています。

皇帝独裁体制と文治主義

述したとおり、宋の太祖・趙匡胤は節度使と呼ばれる軍人出身です。後周の世宗に仕えていましたが、その子・柴宗訓から帝位を簒奪しました。実力者による帝位簒奪は五代十国時代には通例行われていたことです。太祖は、自らがしたような帝位簒奪が以後決して行われないようなしくみをつくらなければ真の天下泰平は訪れないと考えました。宋の政治体制は、そのような太祖の苦悩と、戦乱が続いた五代十国時代に対する反省に基づいて築かれました。そのおおまかなしくみは、以後の王朝にも引き継がれていきます。 の特徴は大きく次の3点に集約されます。
(1)「強幹枝弱」=中央集権体制
(2)文臣官僚制
(3)皇帝独裁体制
代に広大な領土を維持するために導入された節度使は、その後の群雄割拠の主体となりました。太祖はまず、節度使の力を削ぎ、彼らに地方支配をさせないようにしなければならないと考えました。史料をご覧ください。

(太祖は)普(趙普、建国の功臣)を召して、「天下は、唐末以来、数十年間に、帝王が10姓をかぞえるほど易わったが、兵乱はやまず、蒼生(人民)が塗炭の苦しみに陥っているのは何故であろうか。吾は、天下の兵乱をおさめ、国家長久の計を立てたいと望んでいるが、その方法はどうか」とたずねた。普は、「…唐末以来、戦いがやまず、国が不安定な理由は、他でもありません。節度使の力が甚だ大きく、君主が弱く、臣が強いからです。…ただ、節鎮の権力を奪い、その銭穀を制御し、その精兵を収めれば、天下は、おのずから安定しましょう」と答えた。帝はこれに対し、「卿よ、それ以上言うな、吾は、すでにこれをさとっている」といった。

「宋名臣言行録」趙普

万能人・士大夫の活躍

タリア・ルネサンスでは、様々な分野に能力を発揮する「万能人」が理想とされ、それを見事に体現しているのがレオナルド・ダ・ヴィンチだといわれています。中国のルネサンス期である宋代にも「万能人」がいました。それが宋代の政治・社会・文化をリードした士大夫たちです。 大夫には、次の三つの面があります。
(1)政治的には科挙に合格した上級官僚
(2)経済的には新興地主(形勢戸)
(3)文化的には儒教的教養を身につけた「読書人」