ここでは複合体があることから、単一な実体があることが言われている。( “ puisque ” は理由や仮定を表す副文を導く。)もしそうであれば、次のような疑問がある。「複合体がある以上、単一な実体は必ずある」( il faut qu’il y ait des substances simples, puisqu’il y a les composés)
Cf.「モナドは精神的な意味の単一者であり、非延長的なものであるから、全体−部分の関係ではとらえられない」*1
そうだとすると、「全体−部分」でとらえられるのは、「延長−延長」かもしくは「延長−非延長」の関係においてであることになる。
Cf.河野氏によれば、「自然的に」とは「神の奇蹟に依らずに」の意。*2
なお、(原文で)「神」という言葉はここでは出てきていない。第38節以降を参照。
「モナドには、そこを通って何かが出入りできるような窓はない」( Les Monades n'ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.)
もちろん「窓」という比喩にあまり拘泥しないほうがよいだろう。が、この節でライプニッツが言いたかったことを理解する鍵となる言葉ではある。では、順を追って見て行こう。
「モナドの内部が、何か他の被造物のために、変質や変化を受けるということはありえない」*6
変質とは「そのものの本質が変わって、何か別のものになることをいう」*7。つまり、モナドのもつ性質が他のモナドによって変えられることはないのである。
また、先に挙げた「形而上学叙説」第26節で興味深い議論がなされている。そこでライプニッツは、プラトンの想起説を引き合いに出して、観念は、精神のうちに入ってくるのではなく、始めからすべてがそのうちにあるのだという議論を展開している。もしそうだとすれば、新たな観念を取り入れたり、既知の観念が失われたりすることはない。西谷氏の注は、これを踏まえているのだろう*8。
*? (2004-02-27 (金) 10:05:45)
「単一とは、部分がないという意味である」と述べられているが、これは否定による定義である。「単一」は、積極的には定義できないということなのか。積極的に定義できるならば、どのうように定義されうるのか? そもそも「部分がない」とはどういう意味か。部分がないと、どうして「ひろがりも、形もない」と言えるのか? 形がなければ、分割することができないことは分かる。ひろがりがなければ形がないということも分かる。だから、問題は、部分がないとどうしてひろがりがないと言えるのかということに集約されるだろう。「モナドは精神的な意味の単一者であるから」(『名著』p.437注5)ひろがりがないというのであれば分かるが、ここでは部分がないこと即ちひろがりがないことであると言われているように見える。
x, y, z(x, y, z は実数) を座標軸とする空間における物体(拡がりあるもの)を考える。
その物体は、原点Oに一つの頂点をもつ直方体または立方体だとしておく。
原点Oから最も遠い頂点をP(l, m, n)とすると、
P≠0のとき、0<|P’|<|P|であるような無数の立体、平面、線分、点を部分として含む直方体または立方体が考えられる。
(P’は、|P’|<|P|であるような物体を考えたとき、Oから最も遠い頂点である。)
l, m, n のうちいずれか1つが0に等しいとき、
無数の平面、線分、点を部分として含む長方形または正方形が考えられる。
l, m, n のうちいずれか2つが0に等しいとき、
無数の線分、点を部分として含む線分が考えられる。
l=m=n=Oのとき、原点OとPが一致し、もはや部分は考えられない。
かつ、このような物体は皆無である。したがって、いかなる拡がり(幅、高さ)も考えられない。
∴O=Pのとき、いかなる部分をもった物体も考えられない。換言すれば、部分のないところにいかなる物体も考えられない。
Q.E.D.
さて、部分のないところには、ひろがりも、形もあるはずがない。分割することもできない。(Or là, où il n'y a point de parties, il n'y a ny étendue, ny figure, ny divisibilité possible. )
ここで注目したいのは、邦訳では分かりづらいかもしれませんが、「部分がないところには」(où il n'y a point de parties)で仮定や理由を表す接続詞(e.g.puisque)ではなく、場所を表す関係副詞である" où "が使われていることです。ちなみに、ドイツ語訳でも" wo "が使われています。つまり、部分のない場所には拡がりもないと言っているのです。だから、「部分がないこと即ち拡がりがないこと」と言っているのではありません。そうだとすると、今度は、果たしてそんな場所があるのかという話になるでしょう。おそらくその場所こそ「点」なのだと私は思います。点においては、いかなる部分も拡がりも成立しない。そう私は解釈します。それはそれで、「点とは何か?」とか、「点とモナドとの関係は?」とか違った問題が生じてきそうですが、ひとまず置いておくことにします。(あまり場所場所と言っていると西田みたいになってしまいますが、差し当たり西田は関係ありません。)
それから、「単一(simple)」が否定によって定義されていることについては、何がどう問題なのかがどうもピンときません。部分のある実体(複合体)の概念とは独立に、部分をもたない実体(モナド)を定義できないといけないと仰っているのですか?
- Waki? 2004-03-08 (月) 20:37:51
- 返事が遅れて申し訳ありませんでした。不覚にもここの書き込みに気づかなかったもので。
>つまり、部分のない場所には拡がりもないと言っているのです。だから、「部分がないこと即ち拡がりがないこと」と言っているのではありません。
いや、だからどうして部分がない場所には拡がりもないのですか? 根拠はなくて独断的に断定しているということですか?
まあ、この問題はいいです。というのも、どうやら結局、僕は「部分がない」という言い方に引っかかっているのだということが分かったからです。だから、この言葉の意味を教えていただければ自動的に僕の疑問も解消するのではないかと思うのです。
>点においては、いかなる部分も拡がりも成立しない。
確かにライプニッツはそのように言っているのだと僕も思います(より限定するなら「形而上学的点」でしょうが)。ですが、ここで(それも初っ端に)「部分がない」という規定を持ち出してくる理由がよく分からないのです(そのため、言葉の意味は何となく分かりますが、突き詰めて考えるとよく分からなくなってしまうのです)。何か哲学的な伝統に基づいてのことなのかも知れませんが、「部分」というのは通常「全体」の対義語ですよね? ということは、点には全体しかないということになるのか、それとも点には全体さえないということなのか? あるいは、別の用法で用いられているのか? 「点とは何か?」とか、「点とモナドとの関係は?」という問題には今答える必要はないので、とにかく「部分がない」というのはどういう意味なのか教えてください。
>それから、「単一(simple)」が否定によって定義されていることについては、何がどう問題なのかがどうもピンときません。部分のある実体(複合体)の概念とは独立に、部分をもたない実体(モナド)を定義できないといけないと仰っているのですか?
僕にはこの反問の意味がよく分からないのですが、おそらくはそのとおりだと言っていいと思います。だって、複合体は単純実体の集まりなのだから、単純実体を定義することなく、複合体を十全に定義することはできないのではないですか?
一応確認しておくと、通常否定による定義(SはP1でない)は悪い定義だとされています。それは一つの述語を消去しているだけで、本質を規定するものではないからです。いくら否定による定義を重ねても(AはP2でもない、P3でもない、……、Pnでもない)、それは多くの可能性の一部を消去しただけで、Aの本質を規定することにはなりません。もちろん、そのようにしてしか定義できないもの(本質)があるという立場もありえて、それを神について主張するのがいわゆる「否定神学」です(「否定神学」については、東浩紀『存在論的、郵便的』などを参照)。ともあれ、そのような立場を取るのでない限り、定義は「部分がない」とか「拡がりがない」とかではなく、積極的に定義する必要があると思うのです。この箇所を読んでも、単純実体は延長したものではないということしか分からない。延長物でないものが必ずしも単純でかつ実体であるというわけではないでしょう(それともそうなのでしょうか?)。それは結局「部分がない」というのはどういう意味かということともつながっていることでしょう。
- *? 2004-03-16 (火) 14:07:53
- たしかに、「部分がない」というのは、わかりにくい言い方だと思います。私には「部分がない」とはどういう意味かを教えることはできませんが、一緒に考えることならできますので、いろいろ書いてみます。
>僕にはこの反問の意味がよく分からないのですが、おそらくはそのとおりだと言っていいと思います。
ライプニッツの論じ方だと、「複合体があるからモナドはある」と言っているように見えますし(第2節参照)、部分(モナド)は全体(複合体)との関係で考える必要があるのではないかと(漠然とですが)考えていたので、私はモナドが複合体との関係において定義されていることにあまり違和感がなかったのです。今のところ確たる論拠はありませんが、「はじめにモナドありき」ではないのではないかと考えています。私のレジュメの「補足」で、「複合体(複合的なもの)」の4番目の引用を参照してみてください。
>延長物でないものが必ずしも単純でかつ実体であるというわけではないでしょう。
なるほど。複合的な観念などはそうでしょうね。物体に気を取られて、そこまでは考えていませんでした。
ちなみに、「部分がない」という言い方は、エウクレイデス(ユークリッド)を踏まえて言っているのではないかと思って調べてみたら、案の定でした。『原論』にこう書かれていました。
一 点とは、部分をもたないものである。(Σημειον εστιν, ου μερος ουθεν.)*17
「部分をもたない」というのは、もともと「点」の定義として通用していたわけです。その意味では、「点とは何か?」「点とモナドとの関係は?」という問題は重要だと思いますよ。
- Waki? 2004-03-17 (水) 01:14:34
- >「部分をもたない」というのは、もともと「点」の定義として通用していたわけです。
なぁる。かなり分かってきました。詳しい議論は時間がないのでまた今度ということで。
- *? 2004-03-19 (金) 07:25:14
*? (2004-02-20 (金) 15:47:01)
第6節について、少し解釈を入れてみました。あまりうまく行っていないというか、脇君の疑問に答え切れていないようにも思いますが、とりあえず議論の叩き台にはなるでしょう。
>Cf.河野氏によれば、「自然的に」とは「神の奇跡に依らずに」の意。
《一般には、「自然的に」は「神の奇跡によらずに」というように読むのであるが、ここでは、「存在の公理の本来性からして」と読む。》(『『モナドロジー』を読む』、p.31)
意味がよく分からないし、このように言い換えても結局は同じことではないかとも思うのだが、一応紹介しておく。
>前節とのつながりがよく分からない。モナドが自然的に発生・消滅しないことから、それらが「一挙に」行われることを導くことはできないのではないか。また(神の)創造によって発生したといえるのか。つまり、発生が偶然的である可能性は排除されないのではないか。もし十分な理由の原理(充足理由律・根拠律→第32節)を適用してモナドの発生を(神の)創造に帰したとしても、同じ原理によってさらにその理由を問うことができる。
《単子論(仏 monadologie) ライプニッツの形而上学のシステム。広がりも部分も持たない単純な実体を、ライプニッツは「単一」という意味のギリシア語 monas にちなんで「単子(モナド)」と呼ぶ。しかし、物質的な原子ではなく、むしろ表象能力を持つ自我をモデルとした精神的な点のようなもので、そうした無数の単子から世界はできている。それは一つとして同じ単子はなく、個々に欲求と表象を備えており、ちょうど無数の鏡のようにそれぞれの視点から宇宙を時空の遙か彼方にまで映し出す。単子どうしは神によって互いに照応するよう前もって定められており、相互の交渉なしに一つの全体性が保たれている(予定調和)。そのなかには、はっきりした表象を持つものから混迷した表象しか持たないもの、つまり天使や人間から動植物・無生物までさまざまな段階の単子があるが、そのどれもがみな、いわば自分にしか当てはまらない無限の述語を含む一つきりの主語である。従って単子はすべて宇宙と同年齢であり、宇宙とともにしか滅びない。》(『哲学基本事典』執筆者:上野修)
しかし、問題は前節までの言明から、第6節の言明が導出できるかということである。試みてみよう。
モナドが自然的に生成消滅しない以上、モナドは始まりや終わりを持たないか、非自然的に生成消滅するかのどちらかでしかありえない。前者はキリスト教的な神観を前提とする限り(『旧約聖書』の「創世記」に従う限り)、採用できない。そうなると、モナドは非自然的に、すなわち神の奇跡によって生成消滅するしかない。そうなると神は世界を一挙に創られたのである以上、一挙に生成消滅するほかない。
確かに、このことは、それ以前の記述からのみから論理的に帰結するものではない(おそらくは、ライプニッツはそれを意図してはいないのだろう。言い換えれば、『モナドロジー』は、スピノザの『エチカ』などと同じスタイルで書かれているわけではない)。『モナドロジー』の根底(前提)にはある種の神概念、言い換えれば「信心」(dévotion)がある(『『モナドロジー』を読む』pp.36-39参照)。(ただし、この言い換えについては、僕は留保を感じている。)
それでもなお「発生[・消滅]が偶然的である可能性は排除されないのではないか」(ちなみに、充足理由律は事実の真理に関する原則であって、事実を超越している神には適用されない。だから、充足理由律の無限後退はないと思われる)。偶然的に生成消滅するためには外的な原因を必要とする。しかし、モナドに外はない。それは後に言われることであり、まだ言われていないことであるから理由にすることができないとすれば、すべてのモナドは一挙に生成消滅する以上、他の実体がその原因となることはできない。そして、真に存在するものは実体(すなわち、モナド)のみであるので、モナドは生成消滅に関して外的な原因を神以外には持たない。故に、モナドが偶然的に発生・消滅することはありえない。
《 ライプニッツの存在論は、明らかに彼の宗教から導かれている。しかもその宗教は、従来大勢の人々が信仰してきたキリスト教とは異なるキリスト教、つまり彼岸に対象化された神、つまり形式化された神を否定するキリスト教である。そこにモナドロジーの独特の世界が開かれる根拠がある。そうした背景があって、モナドの生成消滅問題が語られているのだと思われる。存在の「公理」からすれば、決してモナドはもはや生成も消滅もしないのに、なぜモナドの生成消滅もないが生起するのか、私たちはこの点を熟慮しなければならない。
最後に一言、最近の宇宙生成論との観点からいえば、ここでの生成消滅問題はまったくレベルが違っていることに注意しなければならない。たとえば、モナドの生成とは、ビッグバンのごとき、宇宙誕生の時間の経過の中で存在が生起してくるような問題ではないのである。ライプニッツがここで言う存在の生成消滅とは、「一挙に」(tout d'un coup)なされるほかはないものである。「一挙に」といわれるのは、まったく時間上のことではなく、いわば本質上のことである。存在の「公理」を私たちが取るか取らぬかという本質上の問題である。ライプニッツは、その基本的態度の決定を、すなわちまことの信心を私たちにここで迫っている、というように理解することもできるであろう。》(『『モナドロジー』を読む』p.39)
参考文献:池田善昭『『モナドロジー』を読む―ライプニッツの個と宇宙』世界思想社、1994年。
>モナドは生成消滅に関して外的な原因を神以外には持たない。
しかし、なぜそれを「神」と呼ばなければならないのか?それは、モナドの生成消滅の原因とされる或る者を「神」と呼んでいるだけのこと。つまり、xをyと呼び替えただけのことだ。
>偶然的に生成消滅するためには外的な原因を必要とする。
とすると、モナドの生成消滅が神を「外的な原因」としてなされるとしても、「モナドが偶然的に発生・消滅することはありえない」という結論が導かれるのはおかしい。その結論を導くには、神が「内的原因」であると言う必要がある。それとも、原因が外的であって、しかも必然的である場合があるということなのか。
>《ライプニッツは、その基本的態度の決定を、すなわちまことの信心を私たちにここで迫っている、というように理解することもできるであろう。》(『『モナドロジー』を読む』p.39)
その「信心」を拒否した場合は?
これらは、結局のところ「神とは何か?」という問題に行き当たることになりそうだ。
参考文献:山内志朗『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』日本放送出版協会、2003年。
*? (2004-02-20 (金) 15:23:05)
批判ではなく(批判できるほどまだ理解できていないので)、脇君の提起した問題の解決のよすがとなりそうな文章の紹介です。だから、あえて僕自身の評価は差し挟まず、解釈は最小限にしてあります。最低限の引用なので、できれば当該箇所付近の文章を通読してもらえるとより参考になるかと思われます。
>「複合体がある」ということはどんな理由によって確保されるとライプニッツは考えているのか。
《 ライプニッツはコギトを事実の真理として認めると同時に「種々のものが私によって思惟されている(Varia a me cogitantur)」ことも同様の事実真理であるとし、後者によって対象への通路を拓こうとする。》(『モナドロジーの美学』p.46)
《薔薇は延長的事物として私に現れる。つまり現象的事物である。しかし延長する事物としては無限に可分的な「複合的なもの(composé)」である薔薇が或る纏まりを持ったものとして私に現れることもまた確かだ。この〈纏まり〉を認識主観によるデカルト的ないしカント的構成へと還元しない道をライプニッツは辿る。「複合的なものがあるのだから、単純な諸実体がなければならない」と議論を展開する場面がそれである。薔薇の一纏まりの実在感(réalité)を私の思惟からのみ借りることを拒否しているのだ。思惟が把握する延長のみにその実在感の由来を求めることは不可能だとした。その上でこの実在感の由来としての力を認めるのだ。現象的延長的事物の側に派生的力を認める所以である。》(『モナドロジーの美学』pp.50-51)
>複合体は、それを構成する部分に分けられる。その部分に分けられたものも複合体であればさらに諸部分に分けることができ、以下同文。しかし、一体どうやってこれ以上分けられない、部分を持たないモナド( monade, i.e. substance simple )に行き着くのか。
>Cf.「モナドは精神的な意味の単一者であり、非延長的なものであるから、全体−部分の関係ではとらえられない」((『名著』p.437、注4))
>そうだとすると、「全体−部分」でとらえられるのは、「延長−延長」かもしくは「延長−非延長」の関係においてであることになる。
《 「単純とは部分のないことである」と言われ、また延長は可分的だとすれば、複合的なものがあるが故に存在するはずの「単純なもの」はもはや延長と同じ次元に属するものではあるまい。
[中略]
明らかにレベル分けが目論まれている。延長する限り「多」には違いない薔薇を一つの事物とするところに「単純なもの」が位置づけられる。「多」を支配する「一」が立てられる。「本当の一性の原理をただ物質即ち単に受動的でしかにものの中に認めるのは不可能だと気が付いた」とライプニッツは言う。》(『モナドロジーの美学』pp.51-52)
《そしてイメージというレベルでは「延長」が見事に表しているように無際限に分割可能である。しかもその分割手続きに沿っても究極的単位には行き当たらない(9)。力には出会わない。それにもかかわらず当の分割を貫徹しない所に原子論の誤りがあり、粒子論の不徹底がある。ライプニッツが採る立場は延長の次元では分割を貫徹し、同時に延長の次元に留まることに対する批判の上に築かれ、その次元を超え出る努力を前提とする。どのように超え出るのか。予想される力を追い求めることによってである。》(『モナドロジーの美学』p.48)
《(9) 「延長性は可分性に他ならぬ故、延長的なるものにはいずこにも究極的な要素、『一』は存しない。真に究極的なる単位『一』は統一である」(下村寅太郎『ライプニッツ』pp.154-5)》(『モナドロジーの美学』第I部第2章注9)
>上に関連して、第三節でモナドには拡がりがないといわれている。ところで、拡がりあるものである「物体」は複合体と考えられる。というのは、拡がりがある限り、さらに諸部分に分割できると考えられるから。(そうでなければ、どんなことをしても割(or 壊)れない「完全剛体」を考えるしかない。)以上により、物体もまたモナドによって構成されていると考えられるが、しかし拡がりのないものからどうやって拡がりあるものが構成されるのかがよくわからない。
《モナドは精神的な意味の単一者であるから、それが集まって物体(延長体)ができるとは考えられない。むしろモナドは物体の統一力であり、物体を物体たらしめている統一原理であると考えられる。複合体が単一体の集合であるとは、無限に分割される各物体が固有の統一原理にささえられていることである。……》(『名著』p.437注5)
簡単に言えば、モナドと物体ではレベルが異なる。多としての物体が一なる個体へとモナドによって統一されているという意味で「物体もまたモナドによって構成されていると考えられる」が、しかしモナドから物体が構成されているわけではない(モナドは物体の「材料」ではない)。では、モナドと物体はどのように関係しているのか。それらは直接的には無関係である。であるから、それらは予定調和によって対応しているという形でのみ関係している。――と言えば、簡単に説明できるのですが、いささか簡単すぎる気もします。
《通俗的に理解された予定調和説に寄り掛かるなら神学的には解決が付く。しかしそもそもそうした予定調和説の理解の前提である個体的実体を初めから認めて議論することこそ慎むべきであり、そうした形而上学的場面に定位する前にやらねばならぬことがある。それこそ美学的な問題設定から出発して単子論を基礎づけるという作業なのだ。》(『モナドロジーの美学』p.50)
>「合成的実体」(複合体?)は「現象」だという解釈はどこから出てきたのか?
『モナドロジーの美学』(pp.56-58)参照。
《「物質はよく基礎づけられた現象にすぎない(82)」》(『モナドロジーの美学』p.57)
《(82) Lettre à Rémond, Giii 606, 636; Leibniz, Antibarbarus Physicus pro Philosophia Reali contra renovationes qualitatum scholasticarum et intelligentiam chimaericarum, Gvii 344;...》(『モナドロジーの美学』第I部第2章注82)
《心身分離の立場では「単なる現象」かせいぜい「よく基礎づけられた現象」でしかない物体(87)が、……》(『モナドロジーの美学』p.58)
《(87) 「1710年より前には物体は厳密に言えば現象でしかなかった」と Fremont は言う。[……]》(『モナドロジーの美学』第I部第2章注87)
参考文献:米山優『モナドロジーの美学』名古屋大学出版会、1999年。