霍峻の子。演義では書き損じたのか、名前を霍戈に変えられている。
劉備の存命時から仕えており、劉禅が後を継ぐと謁者に取り立てられる。
諸葛亮から才能を認められると、諸葛亮の養子・諸葛喬と共に見聞のため各地を旅して回っている。
劉禅の長子・劉璿が成人し皇太子に立てられると補佐役に就くが、
劉璿は政務を顧みず遊び呆けていたため諌めたという。
鄧艾が成都に攻め込み劉禅が降伏したことを知ると3日間の喪に服し、周囲が「早く魏に降ろう」と言っても
「主君の安否が判るまで降伏は出来ない」
としてこれを跳ね付け、劉禅の無事が確認できたところで南方6郡を纏めて魏に降伏する。
その後は司馬昭からも才能を評価され、蜀時代と同様に南方の安定に尽力している。