人物紹介 / 袁紹


袁紹

四世三公、つまり四代に渡って最高位の官職を勤め上げた名門・袁家の御曹司。
出自には諸説あり、霊帝期の司空・袁逢の庶子ともその兄・袁成の子とも伝わる。

曹操とは幼馴染にして悪友でもあり、少年期は婚礼中の花嫁を攫うなどの悪事まで行っていたという。

霊帝〜少帝の時代には大将軍・何進の側近として仕えていたことから董卓が擁立した献帝を基本的に認めておらず、
韓馥と組んで人徳者として名声を得ていた劉虞を立てようとしたり(本人には断られたが)、
李傕、郭汜の争いに乗じて長安を脱した献帝を保護しようという田豊、沮授らの進言を却下したりしている。

一般的には官渡における曹操の引き立て役として、優柔不断のため大勢力を生かせなかった君主のイメージが強い。
荀彧、郭嘉など袁紹を見限り曹操に就いた人物が存在することも、悪印象に拍車を掛けているだろう。
とはいえ、公孫瓚という強敵を打ち破り、張燕ら黒山賊とも渡りあい、また異民族と同盟関係を構築することで勢力を拡充させるなど、相応の実力を持ち合わせていたことは確かである。
また曹操との対立が本格化する以前、冀州の乗っ取りや公孫瓚との戦いでは、むしろ後の印象とは正反対の剛胆で剛毅果断な一面を度々見せていたりもする。
名門・袁家の名とそれに伴う大勢力は官渡の敗北でもまだ覆されてはおらず、袁譚と袁尚が跡目争いを始めて
勢力基盤を弱体化させたのに付け入った曹操が河北を制したのは、袁紹の死から実に7年後のことであった。

もっとも優柔不断で(特に曹操との決戦において)勝機をのがし続けたことは事実で、陳寿は(後継者問題で似たような結末を見せた)劉表と併せて
「威風堂々としており名声は天下に轟いたが、寛大な割に疑り深く、謀略を好みつつも決断力に欠けていた。
さらに有能な人材を活かせなかった上に忠言も聞かず、嫡子を立てず庶子を立てようとした。
これでは死後に没落しても不幸とはいえないだろう」
と評している。
ちなみに袁紹、劉表が長子を蔑ろにしたことは、賈詡や陸遜によって悪い例として紹介されている。

また、曹操の軍師・郭嘉も彼の10の弱点をこう評している。
「儀礼ばかりを重んじる」「天子に逆らっている」「寛容なだけでその悪弊を助長する」「疑り深く身内のものばかり重用する」「策を用いても決断力がない」「上っ面と口先だけの名士ばかり集めてくる」「目先の事ばかりしか見えず目の届かない所には配慮が行き届かない」「部下の派閥争いに振り回されている」「善悪の判断基準があいまいで一貫性がない」「軍事においては勢いを借るばかりで軍事の要点を軽視する」
その名声は中国全土に轟き、血統・実力ともに圧倒的なものを持ちながら、晩節を大いに汚したことで御家の衰退・滅亡を招き、当時のみならず現代にまで汚名を残してしまった残念な貴公子である。