人物紹介 / 袁術


袁術

漢王朝も健在の中、突如として仲王朝の皇帝を騙った故に二つ名の通り「偽帝」と呼ばれる人物。
かつては彼の建てた王朝は「成」であったと言われており、三国志大戦旧作でもその説を採用していたが、近年の研究で正しくは「仲」王朝であったことが明らかになっている。
(成王朝を建てたのは公孫述という三国時代より200年ほど前の人)

一般的には「実力も伴わぬまま皇帝を名乗り破滅した暗君」のイメージが強い人物だが、全盛期は異母兄にあたる袁紹とも渡り合えるほど大勢力を築き上げており、公孫瓚、孫堅、陶謙などの群雄が彼の派閥に属していた。
これに対し袁紹は曹操、劉表などと同盟してこれに対抗しており、反董卓連合結成から袁紹・袁術が没落するまでの約10年の間、三国志という物語は袁紹と袁術の2大勢力を中心に動いていたと言っても過言ではない。
袁紹は兄とされたが出自がはっきりせず、袁術は後漢の司空袁逢の子であることがはっきりしていながら弟とされたため、どちらが袁家の長であるか明確でなかったことが対立の一因と言われる。

また袁紹と渡り合っていた頃は、公孫瓚を味方につけ袁紹に対抗させたり、武勇は折り紙付きだが無頼の孫堅や孫策を庇護下に入れて戦果を挙げさせたり、前任太守死亡の隙に抜け目なく豊かな寿春の地を手に入れたりと、外交戦略や権謀術数を得意とし積極的に策略を巡らせる姿が見られる。
そんな彼が目に見えておかしくなるのは、やはり皇帝を名乗るようになってからであり、圧政を行ったため兵や民からの信望はガタ落ちし、得意としていた外交面でも諸侯のほとんどを敵に回す結果となってしまう。
慌てて自分の子と呂布の娘との政略結婚を取りつけようとするが失敗し、その後の連戦連敗はよく知られる通りである。

皇帝を名乗った直接の根拠は不明だが、袁術自身は数年前から漢王朝の時代は既に終わったと考えていたようで、何度か側近に帝位への野心を漏らしては諫められ機嫌を損ねていたという。
また一説には「漢に代わる者は当塗高なり」という予言を、「道」の意味を持つ「塗」を自身の名「術」・字の「路」の意味に重ね合わせて解釈したとも言われている*1
もっともこの時期の袁術は董承に働きかけて献帝の身柄を保護しようとする動きも見せており、ただ無策に皇帝を名乗ろうとした訳でもなさそうである。
しかし董承が曹操についたため袁術は逆賊となり、皇帝を名乗って対抗するも大義名分なき皇帝には民も諸侯もついてこず、結局皆様ご存知の末路を迎えることとなるのである。

「猿」のつくりに当たる「袁」の字面とその向こう見ずな所業・末路から、日本では猿ネタを振られることが妙に多い人物。
『蒼天航路』では猿そのものの容姿で描かれた挙句、呂布・孫策から明確に猿呼ばわりされ、その流れを汲んでか本作でも撤退台詞などで完全に猿扱いされている。
史実の袁家は春秋時代の名政治家・轅濤塗を祖とする事から轅の一部を取って「袁」と名乗ったと言われており、当然ながら実際に猿と明確な関連があるわけではない。

この袁家、三国時代には本家筋の陳郡袁氏*2と分家筋の汝南袁氏に分かれており、袁紹も袁術も実は汝南袁氏の出身だったりする。
陳郡袁氏の方は三国〜晋の時代こそ地味だが、後の南北朝時代には再び栄え、遠く後世にまで堅実に血脈を伝え続けている*3

演義では皇帝を名乗る大義名分として、孫策が兵を借りるための質草として差し出した伝国の玉璽を利用している。
この玉璽、本物は正統王朝の証として少帝〜献帝〜曹丕と渡り、孫堅が発見し孫策〜袁術と渡ったものと、後に劉備が持ったものは偽物ともされているが、どちらにせよ演義において「玉璽」を手にしたものは、そう長くないうちに非業の死あるいは没落の運命を迎えている。
そのため一部の三国志ファンからは「玉璽」=「呪いのアイテム」と揶揄されていたりもする。

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*1 もっともこの予言、後の曹丕の時代には魏であるとの解釈も作られており、都合良く利用されているだけの感は否めない
*2 三国志に書かれる時代だと、本作にも登場する袁渙などがいる
*3 中華民国の初代大総統である袁世凱はこの陳郡袁氏の出身と言われている