蔡文姫こと蔡琰の父にして、後漢末期の文人・儒学者。
当時の知識人の中でもトップクラスの名声を有した大重鎮の一人であり、
王粲や顧雍といった、後に曹操や孫権の下で活躍する門下生を輩出している。
書の達人としても高名で、後に鍾繇が彼の遺した書物と技法を巡ってブッ飛んだ行動を起こしている。
董卓が漢王朝の実権を握ると、蔡邕は半ば恫喝されるような形で招聘され出仕。
かの董卓も彼の名声には一定の敬意を示していたようで、涼州軍閥関係者でもないのに軍の指揮権を与えられるなど厚遇された。
しかしやはり性格はあまり合わなかったようで、進言にはほとんど耳を傾けてもらえず、
また董卓政権の先行きが明るくないと予感したこともあり、兗州に隠遁してしまおうと考えたこともあったという。
果たして悪い予感の通り、董卓は呂布の裏切りに遭い殺害される。
この知らせを聞いた蔡邕は大いに驚き顔色を変えたが、この事で王允に親董卓派とみなされ投獄されてしまう。
(蔡邕が実際に董卓の骸にすがって涙を流したとの説もある)
死刑の代わりに黥首(入れ墨)と足切りの刑を受けて、歴史書の編纂を続けさせてほしいと頼んだが、
「昔、武帝は司馬遷を殺さなかったために(武帝自身に対する)誹謗の書が世に流れることになった。
蔡邕に筆を執らせると、私が誹謗されることになる」
と王允に言い放たれ、他の者の助命嘆願も無視され処刑される。
(ただし裴松之は王允がこのような発言をした事自体を否定している)
知識人たちは彼の死を大いに嘆き、出身地である陳留ではみな画像を描いて彼を讃え追悼したという。
若い頃の董卓が発掘した一振りの刀を鑑定し、項羽の刀であると判定したという逸話が知られている。