荀彧の実の兄弟。史書によって兄とも弟とも書かれており兄弟の順番はハッキリしない。
陳羣からは荀彧、荀攸らと共に「現代に匹敵する者がいない」と高く評価されている。
袁紹に仕えると、逢紀らの策で韓馥が公孫瓚の侵攻を受けた後、降伏の使者として赴き韓馥を説得している。
その後、官渡の戦い直前に田豊、許攸と共に参謀に任命されているが、以降の事績は書かれていない。
仮に袁紹死後の後継者争いに関わっていれば同じく潁川の名士層である郭図、辛評らとともに袁譚派に属したと思われるが、
子の荀閎らは後日、魏に仕官しているためそれ以前に死去したか、早くに投降したのであろう。