徐州で独立勢力を築き「奴寇」という異名で知られた武将。
独立勢力時代には呂布と交戦して撃退するほどの武勇を発揮しており、後に呂布と和解し同盟関係を結ぶ。
そんな訳で本来は呂布とは対等な関係にあったのだが、演義では呂布配下とされており、各種創作でも演義を踏襲して呂布とは主従になっている事が多い。
呂布が捕縛されると逃亡して身を隠していたのだが、曹操が賞金を掛けて探し出したため捕えられる。
曹操と面会したところ気に入られ、以降は正式に曹操配下として青州・徐州の統治を行っている。
なお臧覇の勢力にはかつて兗州で曹操を裏切り呂布・陳宮に味方した者たちがいたため、
曹操は劉備を通じて「反逆者の首を送ってこい」と伝え、臧覇の説得を試みた。
しかし臧覇は
「俺が勢力を築き上げたのは、亡命者を裏切るような不信義をしないからだ。
曹公に逆らうつもりは無いが、王覇の君主には義を告げて良いだろう」と毅然と反論。
これにはさすがの曹操も、反逆者の処断を諦め赦免したという。
一時期とはいえ群雄の一角たりえた胆力・気概・器量が垣間見える逸話である。
なお独立勢力を築く前は陶謙に協力して黄巾討伐に出陣しており、
曹操に従った後も曹丕の代まで出陣、曹叡の代まで存命が確認されている。
地味にかなり長い戦歴を誇る将であり、曹丕は軍事行動を起こす度に歴戦の猛者である彼に諮問したとも言われる。
演義では赤壁で龐統が連環の計を仕掛けた時に、西涼で馬騰、韓遂が反乱を起こしたという情報が流れると、
徐庶と共に西涼へ出陣したのが最後の登場となっている。