滕牧の娘で、孫晧の皇后。この時代の女性としては珍しく、諱が明らかになっている。
孫亮の代の頃、同族の滕胤が孫綝殺害を企てるも返り討ちに遭うと、連座して流刑に処される。
孫休の代になって大赦が行われたことで中央に戻ることが出来、孫晧の妃となる。
孫晧は皇帝に即位した後、後宮に五千人の女性を囲うようになり寵愛は薄れる。
そんな状況下でも外戚という立場から滕牧が孫晧の諌め役になったが却って機嫌を損ねる結果となり、
最終的に滕牧は左遷され憤死している。しかし孫晧の母である何太后の口添えで皇后の地位は保たれている。
晋によって呉が滅ぶと孫晧とともに洛陽へ移住し、孫晧に先立たれると非常に悲しい哀愁が漂う哀悼文を記している。