人物紹介 / 毋丘倹


毋丘倹

魏の武将。
曹丕の治世に武威太守となり、カク昭らと共に雍州・涼州方面の抑えとして活躍した記録が残る。
曹叡にはその即位前から仕え、曹叡が奢侈に耽り大がかりな土木工事を乱発するようになると、他の群臣と共にそれを諫めたという。
後に陳寿からは「抜群の才能と識見を有していた」と評されている。

公孫淵との戦いにおいては、当初は高句麗や烏桓の援軍も仰いで自ら攻めるもうまく行かず、
後に曹叡から直々に派遣された司馬懿の指揮下に入り公孫淵を滅ぼした。
公孫淵が滅ぶと今度は魏と高句麗の関係が悪化したため、毋丘倹はそのまま高句麗征伐にも従事。
王こそ取り逃がすものの都を陥落させる快進撃を見せ、また灌漑を行うなど軍政にも力を入れたため民は潤った。
司馬師が実権を握ると、諸葛誕・陳泰・胡遵らと共に都督の一人に数えられるようになり、名将としての地位・名声を揺るぎないものとする。
そして鎮南将軍や鎮東将軍と言った高位の武官を歴任し、呉への備えに当たり諸葛恪と幾度もの激闘を繰り広げた。

司馬師の専横に抵抗した夏侯玄らのクーデターが失敗に終わると、
その中心人物たる夏侯玄や李豊たちと親しかった毋丘倹は自身の立場を不安視。
同様に不安を持っていた文欽を取り込み、255年に6万の兵を率いて挙兵し、司馬師を激しく糾弾した。
しかし司馬師は、配下の王基の進言もあって反乱の準備が不十分であったことを見抜き、
10万を超える討伐軍を迅速に送り込み、瞬く間に毌丘倹を劣勢に追い込んだ。
正面から戦わず本拠である寿春を側面から牽制するなど、討伐を焦らずじわじわと追い込む司馬師の戦術の前に、
戦況を絶望視した将兵は次々と投降し反乱軍は戦線崩壊。
文欽・文鴦も一時は奮闘するものの敗れて呉に亡命し、毌丘倹は軍を捨てて逃亡を図るもその途上で殺害された。

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