董卓配下の武将の一人で、作品によっては李傕、郭汜、張済と共に四天王として扱われることもある。
後述の逸話により韓遂とは同郷とされているが、出身・出自について史書に明確な記述はない。
武将としての事績が残るのは董卓が政権を握ってからだが、恐らくは涼州時代からの董卓の部下か。
李傕が長安で実権を握った後、馬騰と韓遂が反乱を起こすと討伐軍として出陣し、これを散々に打ち破る。
しかし逃げる韓遂を追撃したものの同郷の誼で見逃し、談笑してから別れている。
ところが一緒に出陣した李利にこれを見られ、李傕に密告されてしまい内通しているのではと疑われてしまう。
その後李傕によって誅殺されたのだがその最期には諸説あり、
会議の席上で殺害されたとも、宴会に呼ばれてしこたま酔った所を殺されたとも言われる。
しかし董卓軍時代からの古参にして歴戦の彼を処断したことは、李傕自身の求心力および李傕軍の戦力の低下につながってしまい、
結果的に没落・破滅を招く遠因の一つになったとも言われる。
李傕軍の中では人望が厚かったともいわれており、李傕からは自身に取って代わられるのではないかと警戒されていた可能性もある。