人物紹介 / 于吉


于吉

孫家三代の中興の祖である孫策の死にまつわる不可解な人物、それが于吉である。
フレーバーテキストに書かれている、雨を降らせたという逸話から旧三国志大戦では降雨や水禍の計など水にまつわる計略の使い手だった。
今回は演義や捜神記に引く「孫策を呪い殺した」という呪詛の方が採用されたようである。

まず前提として、孫策が殺された江夏以南、特に長江以南はこの時代だと「中国」と「南蛮」の境目のようなところであり、
後漢王朝の支配があまり及んでおらず、むしろ後漢王朝が傾いでいたからこそ(怪しげな)新興宗教が豪族のように蔓延っていた。
北方では張角が宗教を核として結集したのに比べ、南方はそこまで結集するほどでもなかったということである。
孫堅が海経や豫州に割拠したときも「陽明皇帝」を名乗って決起した許昌という"妖賊"がおり、孫堅は三年もこんなのの討伐に手こずっている。
逆に言えば孫一族が登用した南方の豪族の中には「後漢王朝よりも新興宗教を重視する土着民/土着将」がいる可能性もあり、
于吉もそういった土着豪族に連なっていた宗教家とみなされていた可能性がある。
こういった小規模な狂信集団が弾圧されたり権力に取り入る時に何をやらかすかいえば…残念ながら現代においても様々なその実例が存在する。

正史では陳寿の本文には登場しないものの、裴松之の注では『江表伝』『志林』『捜神記』と言った資料から採用している。
(余談だがこの3つのうち『捜神記』は名前通り三国時代の怪しげな逸話を収録したもので、正史というより演義寄りである。
また江表伝も裴松之が「粗なれど条貫有り」と評した程度のものであり、また魏に立った文章のため孫呉関係の資料と言うには微妙である)
それらの記述を大まかに纏めると、配下の者たちが君主を差し置いて于吉を崇めに行ったことに怒り、
「人心を惑わす胡乱な輩」として処刑したというところである。
そしてその直後、于吉とは直接の関係がない(とされる)許貢の息子とその子飼いの食客に襲撃されて倒された。

三国志として比べたとき、当時の君主には護衛がつくのが常である。曹操は常に典韋・許チョを侍らせ、劉備も関羽・張飛を脇に従えている。
当時の孫策はバリバリの武闘派であり、黄蓋や韓当といった父親の代からの勇将がいるにも関わらず、なぜか討たれてしまった。
かつこの一件で于吉を処刑までするということは、孫策の支配力が盤石でなくそういった宗教勢力に掣肘されやすい立場であったということだろう。
(この当時の神仙や妖術といった逸話は大量にあり、あの曹操ですら左慈にきりきり舞いにさせられている点からもそれは分かるだろう。)
特に于吉処刑の際には母親の呉夫人まで擁護に回ったとされ、「土着豪族のみならず母親までたぶらかす邪教の徒」に対し苛烈に反応した可能性すらある。
こういった様々な条件が合わさって「于吉の妖術に孫策が敗れた」という、孫策から見れば最悪の風評を招いたわけである。
あるいはここで張昭といった北方の士人までやられていたら、孫呉三代は孫策で止まっていた可能性すらあるのだ。

それでも正史ではそういった後世の注で宗教勢力との関連がほのめかされる程度だったが、
民衆の伝承を採録したという演義ではもう完全に妖術で孫策がコテンパンにされたという筋書きにされている。
一応「怪しげな宗教家を処刑する」「許貢の食客に襲われて負傷する」というプロットは残っているものの、まずその前に
「孫策は『お前が雨を降らせたら助命してやろう』というと、于吉はそのとおりに雨を降らせた。しかし孫策はそれでも于吉を許さず処刑した。」
という話がくっつき、さらに負った傷に于吉の亡霊が呪詛をすり込んで衰弱死しているということになっている。
それでも演義では孫策が快男児、于吉が怪しげな宗教家とされているのは、魏に与したことがないという一点にあるのだろう。