劉焉の末子。当初は長兄・劉範や次兄・劉誕共々朝廷に仕えていた。
父の野心に気づいた朝廷により使者として益州に赴くと帰されずそのまま留め置かれている。
父が没すると、趙韙らに推されて(三兄・劉瑁を差し置く形で)益州牧を継ぐ。
ただし父ほどの器量は無かったようで東州兵の暴走を抑えきれなかったり、
北の備えとして置いていた五斗米道の教祖・張魯に見限られたり、自身を推した趙韙にも謀反を起こされたりしている。
最終的には張松、法正、孟達の画策で劉備を迎え入れると、その劉備によって攻め滅ぼされ降伏する。
その後は荊州・公安城に身柄を移されたが、呉によって荊州を落とされるとそのまま孫権に仕えている。
正史でも演義でも愚鈍な凡君として記述されており、陳寿からも
「英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」
と酷評されている。
(ただ劉備が侵略同然に蜀を手に入れた経緯を考えると、悪く書かざるを得なかったという事情は考えられる)
一方で劉備軍の物資にダメージを与えるべく提案された焦土作戦を却下したり、
配下や民の戦意はまだ失われていなかったにも拘わらず「これ以上民を苦しめたくない」と降伏したり、
気弱で優柔不断だが慈悲のある人物ではあったとされている。