人物紹介 / 劉巴


劉巴

荊州南部の四郡のひとつである零陵の名士。
荊州を治める劉表からの誘いは断り続けたが、荊州が曹操によって治められるようになると、劉巴は自ら出仕している。
曹操の命によって改めて地元である荊州南部へと派遣されているが、赤壁の敗戦で補給線が絶たれた四郡は孤立し劉備に征圧されてしまう。
その後劉巴が劉備を避け近隣の交州や益州を逃げ回るも、最終的にはやむなく仕えることになったのは裏書通りである。
劉備が嫌いだったかは定かでないが、劉備からの攻撃を受けている零陵を離れる際に「仕事で来てるから」と言ったのにこの顛末なのは、曹操の元に戻りたかったが帰り道が無かったということだろう。

劉備の下では裏書のように皇帝即位の際に天地の声を聞いただけでなく、蜀科という法律の制定にも携わっている。
その一方名士と聞くとすぐ交流を持ちたがる張飛が訪ねてきたが、劉巴はガン無視したという話がある。
当然張飛は怒り、諸葛亮が劉巴に理由を聞くと「士大夫は英雄と交流すべきで、兵卒と話すことなんか何もない」と答えている。
軍の重鎮である張飛に対して結構な爆弾発言であり、これを聞いた劉備も眉をひそめたという。
劉巴にとって曹操かあるいはその幕下の人物は英雄だったのだろうが、劉備は果たして…
ちなみにこの話は呉にも伝わり、孫権と張昭の話の種にもなったという。
張昭は「主君・劉備の義兄弟の張飛にそんな扱いをするなんて信用できない」と劉巴を非難したが、
孫権は「主君の顔色をうかがって対応を変える方が信用できないだろう」と擁護している。

しかし名士であり優れた政治家でもある劉巴に対して咎めはなく、またその後の劉巴の扱いも変わることはなかった。
劉備と諸葛亮が互いに劉巴の評価について語り合ったことがある。
劉備が「余人を越えた才気を持つ。あれほどの人物を扱えるのは私を置いてほかにいない」と自負を交えて劉巴を称え、
諸葛亮はそれを受けて「謀略を巡らせ陣幕の中で勝負を決することにかけては、私は彼に遠く及ばない」
「陣頭に立ち兵を指揮することにかけてなら、あるいは彼にも一言言うこともできるだろうが」とこちらも自負を交えて劉巴を評価している。

なお劉巴の事績の詳細や言行については、陳寿の著した『三国志』の本伝ではなく裴松之の引いてきた『零陵先賢伝』という書の記述が主な根拠。
正史本伝では陳寿が劉巴を高尚で清廉と評しているのに対し、『零陵先賢伝』では上記の零陵を離れる際の一言や張飛との逸話など高慢で偏屈ともとれる記述が多く、その人物像には大きな差異が生じている(ただしこの『零陵先賢伝』自体、劉巴に限らず劉備軍に対するネガティブな記述が多く、蜀漢批判のためにわざと偏った書き方をされているのではないかという指摘もある)。
本当に陳寿が言うような人物だったのか、あるいは意図的に伏せて忖度したのか、答えは歴史のみぞ知るところである。

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