魏〜西晋の武将。
仕官当初(おそらくは魏王朝時代)は河内郡で県令、典農中郎将を務め善政ぶりを評価されていた。
晋王朝が成立すると近衛軍を任せられ、ここでも功績を上げて荊州刺史・折衝将軍に任じられる。
呉で歩闡が反乱を起こすとこれを救援すべく西陵に向かう。
しかし陸抗の策で羊祜率いる本隊と合流が叶わず自部隊だけで陸抗と戦わなければならなくなり、劣勢が数ヶ月続いた末に夜陰に乗じた撤退を決断するも陸抗に見抜かれており、追撃されて大損害を被っている。
戦後、朝廷内での批判が相次ぎ、免職されて故郷に退く。また、このとき羊祜も降格処分を受けている。
その後は故郷で隠棲・静養しながら学問に励むも、再起の機会を待たず2年後に病没。
出世ぶりを見るに無能な人物とは思いにくいのだが、相手が悪すぎて敗軍の将というイメージを歴史に残してしまった不運の男であった。