人物紹介 / 法正


法正

元は劉璋に仕えていたが、友人の張松と共に劉備を益州に迎え入れることを画策した人物。
劉備が入蜀した後は、同じ劉璋配下で捕虜となっていた許靖を登用するように進言。
劉備が許靖を厚遇したところ、賢人を重用する劉備の下にさらに多くの名士が集まることとなった。
三国志演義等の創作では、これを「劉備の大徳により人材が集まった」と表現するが
劉備が流浪の末行き着いた土地勘のない巴蜀の地で人材を集め地盤を確保できたのは
許靖の名声を利用した法正の策であった。

軍略面では、劉備に漢中攻略を進言し軍師として従軍。
その戦術により夏侯淵を討ち取っている。(定軍山の戦い)
曹操は、夏侯淵の死を嘆きつつも
「自分は多くの人材を集めたが、なぜ法正を手に入れることができなかったのだろう。」
と感嘆したという。
法正は、定軍山の戦いの翌年に病死してしまうが、その後の夷陵の戦いで劉備が大敗した際、諸葛亮は
「法正殿が生きていれば、陛下(劉備)を止められただろう。
 もし止められなくとも大敗はしなかっただろう。」と嘆いたとされている。

人物紹介/諸葛亮の項にもあるように、諸葛亮は、内政・政治面では優れていたが
戦場における戦術は、効果的な成果を上げていない。
蜀が戦争において魏や呉の版図を大きく奪い獲ったのは、まさしく漢中を獲ったこのときのみであることも鑑みると
軍略面においては、三国志時代における優れた軍師の1人として名を連ねるに値する人物であると言える。
劉備もそれを評価してか死後に翼侯という諡を贈っている。
(ちなみに劉備は関羽、張飛にすら諡号を贈っておらず、法正が唯一である)

一方で人格面はカード裏にも記される通りで、どんな小さな恨みも忘れることはなく、
劉備の下で蜀郡太守の地位を得ると、私怨ある者・自分を非難した者を独断で処刑するという所業に及んでいる。
もちろん諸葛亮がその報告を受けることもあったが、諸葛亮は法正の功績を顧みて黙認した(せざるを得なかった)と言う。
尚、同時に恩なるものには謝礼で報いていたようで、正史には「一食の徳にも睚眦の恨みにも必ず報いた」という記述がある。
(この評価は戦国時代、同様の行いを取った秦の宰相・范雎の『史記』における記述とほぼ同様だったりする)