人物紹介 / 文鴦


文鴦

後漢末期の武人・猛将たちが軒並み没した三国志終盤において、個人武勇では最強候補の一角とされる人物。
「鴦」は幼名から転じた通称のようなもので、本来の姓名は文俶、あるいは文淑とされる。

文欽が司馬師に反旗を翻すも敗れ呉へと逃れる際、司馬師の執拗な追撃に遭うが、
文鴦は己の意地と時間稼ぎのため僅か十数騎で司馬師の陣を急襲、これを成功させて自らも生還するという超人的武勇を発揮する。
その後、文欽は同じく司馬一族に対して反乱を起こした諸葛誕を救援し合流するが、意見の対立から諸葛誕によって殺害される。
文鴦はそれでも一時は諸葛誕を救援し続けようとしたが、部下が誰もついてこなかったためやむなく司馬昭に降伏。
群臣は処刑を主張したが、司馬昭はここで文鴦を処刑すると誰も降伏しなくなり反乱が長期化すると懸念し、文鴦を赦免。
文鴦自身が「文欽の子ですら許されたのだ、心配はない」と呼びかけたこともあり、諸葛誕の軍は大いに動揺し、司馬昭は目論見通り乱の鎮圧に成功した。

晋の将としては主に異民族対策に従事し、特に樹機能との戦いで名を上げた。
しかしその後は決して幸福な生涯であったとは言えず、司馬炎には一目で嫌われて左遷されてしまう。
そして賈南風が政変を起こすと、賈南風派についた司馬繇は諸葛誕の孫にあたるため、文欽殺害の報復を恐れて文鴦を讒言し、反逆者の濡れ衣を着せて謀殺してしまった。
父の反乱から始まった数奇な運命のしがらみに、最後まで縛られ翻弄された哀れな武人であった。

しかし、この文鴦の左遷〜謀殺は対外関係を無視して敢行されたため、文鴦の武勇を畏れてなりを潜めていた樹機能ら異民族が決起、再び晋を悩ませることになる。

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