人物紹介 / 馬倫


馬倫

 生没年 122年〜184年
 後漢の太傅で袁紹の叔父である袁隗の妻。父は大儒者の馬融。幼い頃から才があり、弁が立ったという(演義には登場せず)

 『後漢書』列女伝より。
 汝南郡の袁隗の妻は、扶風郡の馬融(大儒者)の娘である。字は倫。倫は幼いころから才気走り、弁が立った。馬融の家は代々金持ちで、嫁入支度も豪華だった。式が済むと、隗が質問した。
袁隗「婦(つま)というものは箒だけ持って来ればよい(女と箒で婦だから)。なんでまたかように贅沢をするのか?」
馬倫「両親が私を可愛がってしてくれたことなのに、逆らうことはできません。あなたがもし鮑宣・梁鴻の高潔さを慕われるのでしたら、私も少君・孟光の仕方を真似ると致しましょう。」
 鮑宣(前漢の政治家・諫言を繰り返した)       少君(鮑宣の妻・裕福だったが貧しい夫を支えた)
 梁鴻(後漢の文人・憂国憂民の詩を作って弾圧される) 孟光(梁鴻の妻・不美人で着飾っていたが質素な服にして夫に喜ばれた)
袁隗「弟が兄より先に仕官すると世間では笑いものになるが、そなたは姉より先に嫁いでもよいのか?」
馬倫「私の姉は並外れてすぐれていますので、いまだに釣り合う殿御が見つからないのです。私のように適当な所で手を打たないだけです」
袁隗「馬融殿は学問・詩文において並ぶもののない方なのに、いつも金品のことで評判を落とされるのはなぜか?」
馬倫「孔子でさえ叔孫武叔の悪口を免れませんでした。子路(孔子の弟子)は賢人でしたが公伯寮(魯の陪臣)に讒訴されました。聖人君子でさえこのようですから、父上が世間から悪口を言われるのも当然です。」
 叔孫武叔(魯の貴族・「子貢は孔子より優れている」と言った)
袁隗は馬倫を言い負かせないで黙りこんだ。几帳の外で二人の会話を聞いていた家族は恥ずかしい思いをした。

 袁隗は時の君に気に入られ出世した。馬倫も世に有名であった。
馬倫の妹の馬芝も才能と品行が優れていた。幼いころに親を亡くし、成長してから親のことを追憶して「申情賦」を作ったという。
蔡邑の『司徒袁公夫人馬氏碑』(馬氏の墓碑)によると、光和7(184)年に63歳で病死した。
7年後の191年袁紹らの連合軍侵攻に伴い、都に残っていた袁紹の一族・袁隗らは董卓により処刑された。馬倫は悲劇を見る事なく天寿を全うした幸せな人生だと言えよう。