人物紹介 / 馬隆


馬隆

晋の武将。
若い頃は滅亡前の魏にも仕えていたようで、王淩の乱に際して名が出てくる。
令狐愚という武将は王淩と並ぶ乱の首謀者であったため、
乱が失敗に終わるとその墓は荒らされ、遺体は晒され、誰も引き取るものがいなかった。
馬隆はかつて令狐愚の食客であったと偽り、私財を投じて令狐愚の棺を用意し改めて葬り、松や柏を植えて三年の喪に服した。

彼の生涯最大の活躍である涼州平定において、カード裏に「精鋭を連れ」とあるが、
これは彼が出兵するにあたり、三十六鈞の弩、四鈞の弓を引ける者だけを募り、
さらに標的を立てて試験を行い軍勢を編成したという逸話から。
この時に武器庫の管理者が使い古しのボロ武器ばかりをよこしたため口論になり、
最終的に晋帝・司馬炎の裁定を仰いで三年分の軍需物資を補給してもらったという。

晋による中華統一後、荒廃していた西平の復興のため、馬隆が適任とされ西平太守に任じられる。
近辺の異民族は馬隆が赴任すると守りを固めたが、馬隆は兵に農具を持たせて畑仕事をさせる。
これを見た異民族は、馬隆の軍に討伐の意図がないものと見て油断。馬隆はその機を逃さず攻勢に転じた。
以後、馬隆が西平を治めている間、異民族は一切反乱を起こさなかったという。
馬隆が年老いると、その地位を狙った厳舒という武将が朝廷に讒言し馬隆を召還させ後任となるが、
するとたちまち異民族は結集して勢力を盛り返したため、結局厳舒は免官され馬隆が復職。
以後馬隆はこの任を務め続け、生涯現役・在任のまま世を去った。

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