解犢亭侯・劉萇の妻にして霊帝・劉宏の母。
諡は「孝仁皇后」だが、霊帝即位後は永楽宮に住んでいたことから「永楽太后」とも呼ばれる。
劉萇は皇族とはいえ末端に過ぎず、貧困生活を送っていたが桓帝の崩御時、子がいなかったことから霊帝が擁立されると洛陽に移る。
貧困生活の反動か金にうるさくなったようで、霊帝の悪政の一つとされる売官を勧めると、売上を自身の懐にも収めていたという。
また、王美人の産んだ劉協を養育しており、劉弁を擁立しようと企む何進、何皇后兄妹と対立する。
霊帝の死後も争いは続き、身内である驃騎将軍・董重に何進を討たせようとしたものの、
何太后の耳に入ったことで何進に先手を打たれ、董重は捕らえられた末に免官、自害させられている。
このことにショックを受けると、病にかかり急死してしまった。
死後、董卓は同姓であることから「董太后の身内である」ことを朝政を牛耳る名目にしている。