劉備旗揚げ期の配下にして、曹魏では北方の抑えとして活躍した武将。
劉備が義勇軍を立ち上げると少年兵として参加し、その実力を劉備に高く評価される。
しかし、劉備が陶謙の援軍として徐州に向かった後、豫州刺史になると、母の看病のため幽州に残る道を選び、劉備から
「君と共に大事を成せないのは惜しい」と言われるほど惜しまれている。
その後は公孫瓚に、公孫瓚の死後は鮮于輔に仕え、袁紹と曹操が争う頃になると鮮于輔に助言して曹操に帰順する。
曹操軍では弋陽太守を務めた後、曹彰の配下として代郡の烏桓族討伐でも活躍する。
魏王朝の成立後は護烏桓校尉、并州刺史として北方の異民族対策に当たったり、満寵の補佐として呉の侵攻に対応したりしていた。
晩年には司馬懿によって中央に召喚され衛尉となるも、老齢を理由に度々辞任を願い出ていたという。