人物紹介 / 程普


程普

孫堅の代から仕えていた宿将の中でも最年長とされる人物。
孫策の代の上奏文では黄蓋・韓当が校尉止まりであるのに対して程普だけは中郎将と記されており、
実際に他の宿将よりも格上の立場にあったと推測される。
孫権の代には武官の最長老として「程公」と呼ばれ敬われていたという。

演義では張飛の蛇矛によく似た形状の「鉄脊蛇矛」という武器の使い手であり、
実際に鉄脊蛇矛を用いて汜水関で胡軫を討ち取るという場面が描かれるほか、
孫堅が伝国の玉璽を発見した際に鑑定を担当しており、孫堅軍の中でもインテリ層の出身として扱われている。

正史の注である「江表伝」によれば、周瑜とは当初不仲だったが次第に人柄を認めるようになったとされており、
それを踏まえてか演義では周瑜の配下とされたことに不満を持ち、病気と称して息子を代理に出したという逸話が書かれている。

このように周瑜とは当初不仲であり、赤壁の戦いの際に孫権が周瑜を左都督、程普を右都督とした事には(左の方が格上)、
大いに不満を持ち、それが発展して孫呉軍の内部分裂につながりかねない程であったという。
最終的には周瑜が程普に対して身を低くして接した事で程普も周瑜を認めるのだが、
この周瑜と程普の権力争いは曹操軍にも知れ渡っており、それを逆に利用したのが、
黄蓋の偽装降伏作戦と言われている。(どちらかと言えば程普派の黄蓋が周瑜に不満を持ってもおかしくないため)
この時の権力争いは呉将の中でも共通認識として相当激しいものだったらしく後に関羽討伐戦で孫権が呂蒙と孫皎を左都督・右都督と置こうとした際に、
呂蒙が孫権に直談判し「赤壁の時の事を忘れたのですか!」と言ってまで取り下げさせ都督を呂蒙一人にさせた程だったという。

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